● 歴 史
明治の初めに加藤賢成が編集した『速見郡村誌稿』に、
畔無湯、湯質硫馨鉄気ヲ混ス、疵癩・骨痛・腫物及癬等総テ悪瘡其他諸症ニ効アリ、浴場壱ケ所
と記されたほど医療に効能があったため、多くの入湯客があった。
古くは、浴場だけの建て物であった。明治41年(1908)には、
桁行弐向、梁問一間半、平家建切妻造り、瓦葺き、室内天井張り、三坪の温泉付属建物
が併設された。この建て物は、別府町立工業徒弟学校(大分県立工業高校の前身)の職員と生徒が当ったといわれ、その見積書には、
屋根ノ部
土居葺(杉皮押竹釘縄諸材、手問共)
比見積代金、弐円八拾三銭、
瓦葺(瓦及葺土手間共)
此見積代金、拾九円九拾弐銭
屋根漆喰(諸材手問共、但軒先三枚踏下ゲニ枚)
此見積代金、参円四拾五銭
壁ノ部
壁荒塗(竹小舞小縄釘其他手問共)
此見積代金、九円弐拾銭
中塗上塗(諸材手問共)
此見積代金、四円六拾銭
合計金四拾円。
右ノ通リ見積候也
明治四十一年六月二十三日
別府町今村久吉(在判)