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  母の湯

 

 

 

● 歴 史

南立石、境川右岸(元立石村)、文化村の宅地造成地区にあった浴場。 昭和十二年(一九三七)「母の湯記念碑」に、由来炎暑酷寒をものともせず、昼夜の別なく、お国のため、いとも厳しき軍務に励ませ給ふ将兵を聊かなりとも慰めむものと愛国婦人会に於て湧湯の献納を計画中、これを伝へ聞たる大 分市南大分評議員幸フク刀自は、深くこの挙に感動し、単独献納を申し出られたり。当時の聯隊長、塩田大佐は、その志を喜び、名を「懐しき母の湯」と命ぜらる。茲に石碑をたてて、永く篤志を誌す。 昭和十二年十一月 日 愛国婦人会大分県支部長粟屋幸代と記されていた。それから四十四年目昭和五十六年(一九八一)八月七日工事のため石碑もろとも取りこわされ、遺構は残っていない。 なお、当時川をへだてて北側には、陸軍兵舎あり、鶴見原から大平山にかけては演習場になっていた。利用する浴客は軍人が多かったという。時代相を反映した浴場だった。

場 所