古くは浜田鉱泉・内竈の湯ともいった。亀川浜田町三(元御越町↓亀川町)、新川交差点から旧国道を北に約一〇〇メートルのところにある。
明治中期、亀川海岸砂丘上にできた浴場で明治三十五年(一九〇二)野尻従吉の『豊後温泉誌』に、浜田の温泉は、別府町を距る一里八合、亀川を距る僅に十町余御越村字内竈にあり、数年前高橋某開懇を試み泉脈を発見し得て一の浴場を建設し、名付けて浜田の温泉といふ(下略)とあるから、温泉の発見は、おそらく明治三十年(一八九七)ごろのことであろう。明治四十一年ごろ浜田温泉の付近には、小西屋・鍛冶屋外五六軒の木賃宿があつた(「亀川みやげ」)。
その後、大正十四年(一九二五)稗田武士の『別府温泉』をみると、大正末期の同温泉は浜田鉱泉ともよばれ、木造瓦葺き二階建の浴場で、泉質は塩類泉。泉源の泉温は五三度であった。設備は、階下を浴室に、階上を料亭(更科)にあて、浴槽は男女共各泉浴二、砂湯一。あった。
今の建物は、昭和十年(一九三五)の建築で木造瓦葺き二階建てで二二四・八平方メートル。堂々たる建物で、戦後になっても建牢な建物はそのまま、一階は男女の浴槽、二階は浜田公民館として利用された。昭和五十一年ごろ、営業時問は午前七時から午後九時まで、入浴料は大人二〇円、子供一〇円、区民券(三〇回)は二〇〇円、区外券は三〇〇円と格安であった。なお、温泉の前には、温泉創設の恩人永田重郎翁の頌徳碑がある。
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場 所