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  浜脇温泉

 

 

 

● 歴 史

大字浜脇にある温泉で、東温泉(東の湯・弦月泉)と西温泉(西の湯・清華泉)が昭和三年(一九二八)六月合併してできた温泉である。東の湯・西の湯時代の歴史を持っている古い温泉である。 『別府市誌』によれば、神沢又一郎氏が市長に就任してから、浜脇東西両温泉を合併して之を浜脇温泉と改称し、総工費一〇万一、九五七円を投じ、昭和二年(一九二七)七月二十四日起工式をあげ、満一ケ年の後、同三年六月竣工をした浴場で、総建坪は二六六・七一坪、近世オランダ様式の鉄筋コンクリート建築で、屋上の庭園は一四〇坪で当時の最近文化をとり入れて建築した公衆浴場であった。 なお、竣工祝賀式における工事報告書には次の如く記されている。 工事報告 浜脇温泉改築工成リ茲ニ本日ノ吉辰ヲトシ落成式 ヲ挙クルニ当リ、不肖其ノ局ニ在ルノ故ヲ以テ工 事報告ヲ為スコトヲ得ルハ、尤モ光栄トスル所ナリ。抑モ本泉ノ改築ヲ叫バルルヤ久シ、未タ其機運ニ至ラサリシカ社会ノ進展ハ改善ノ荏苒ヲ許サス、偶々機熟シ大正十五年二月市会ニ於テ満場一致ノ協賛ヲ経、同年度ヨリ準備ニ着手シ、客年五月、藤本組ト請負契約ヲナシ、七月二十四日、工ヲ起シ、本日其ノ落成ヲ見ルニ至レリ、設計ハ、別府市技手、池田三比古、専ラ其任ニ当リ逓信省技師吉田哲郎氏ノ意見ヲ徴シ、其ノ様式は近世和蘭式ニ則リ、主体構造ハ鉄筋混凝土造ニシテ堅牢ヲ旨トシ、尚加フルニ輪奐ノ美、内容ノ改善等最新式ノ設備ヲ加ヘタリ、就中衛生施設ニ於ケル採光換気并ニ浄化装置及従来最モ遺憾トスル海潮ノ逆流防止ニ意ヲ用ヒタリ、建物ノ延坪数五百九十九坪五合ニシテ、平家建は無料浴場トシ、二階建ヲ有料浴場トス、何レモ階上ヲ屋上庭園ニ利用スルノ計画ヲナシ、浴槽ノ容積無料一、九六九立方尺、有料温泉九四五立方尺ニシテ給湯料一回、四万九十九石三三ヲ要シ、一時ニ約壱千弐百人ノ入浴者ヲ収容シ得ヘシ、所要総工費十二万九千六百三拾四円ニシテ工事日数三百四十六日、職工延人員一万五千人ヲ要シタリ、然レ圧、予算ノ関係上理想ニ合セザル恨アリト雖モ東洋ニ於ケル温泉建築物トシテハ他ニ遜色ナキヲ信ズ、由来浜脇温泉ハ泉都別府ニ於テ最古ノ歴史ヲ有シ、其医治効用ノ他ニ卓絶セル霊泉タルハ一般社会ノ定評アリ、幸ニ本建築ニ依リ、将来益々名声ヲ発揚シ土地発展ニ資スル所多カランコトヲ希望シテ止マサルナリ、終リニ臨ミ、建築委員諸士ノ工事監督上熱心尽力セラレタル ト、工事請負者カ萬難ヲ排シ能ク其ノ責任ヲ尽サレシコトヲ衷心ヨリ感謝ニ堪ヘサルナリo 右報告ス。別府市主事温泉課長 昭和三年六月十日小野七郎 と記されている。 昭和三年といえば、市制施行後四年目にあたり、市公会堂の完成や、亀の井自動車会杜の創立、信栄寺大仏殿の竣工開眼、中外産業博覧会などがおこなわれた年である。 なお、この年別府湾にはエンプレス・オブ・オーストラリア号、フランコニヤ号などが来泊した。 その後、昭和六年の『温泉の別府案内』には「・-・-階下は主として並湯に充てられ、男女湯共に各三個の泉浴(どんぶり)と二個の砂湯及び臥湯の外上等湯もあり二階には家族湯、休憩室等あり、尚三階には宴会場の設備あり、屋上庭園は何人にも開放された…-・」とある。 温泉の供給については、その後湧出量が激減。堀田泉源からの引湯をおこなったが、その条件は浜脇高等温泉と同じであった。 戦後、昭和五十九年の温泉の状況については、同年七月の二十日の今日新聞に、浜脇末端で七〇度の熱さ、温泉の水道使用量が急増。現在市内の各公泉ともお湯のトラブルはほとんどないが、ただ「お湯が熱すぎるため水の使用量がかさんで困る」といったゼイタクな苦情が持ち込まれた。 浜脇線の場合、堀田泉源孔で百度近い温泉が、五キロの給湯管を通って浜脇地区末端の浜脇温泉に届いた時点での温度は七十度もあり、かなりの水が使われている。市有市営 温泉十五か所の水道代は年間七百二十万円程度だが、夏期については、他のシーズンの約三倍の水道代になったり、(下略)と記されている。なお、昭和五十九年度の入浴客は一七万八、一七二人であった。(西の湯)


場 所