所在不明。『豊陽故事談」慧解山観音寺廣禅院之事の条に、:-(上略)……此寺ノ側有湯、名宝賦湯、其湯東西有石室。冬夏凝氷不消、開一石門望見若倉可一丈、入具内縦横可方十丈、照燭膽奥遍室氷凝、或如舗玉○、或似竪銀柱時属三炎採氷百数人人自-足。とある。記されていることは、鶴見山の下にある立石村の慧解山広善院のそばに湯がある。これは寶膩湯(ほうじゆ)と名付けられている。その湯は東西に石室があって冬夏凝って消えず。一ツの石門を開いて望めば、中は方一丈程もあり倉のようである。中にはいつてみると、たてよこ十丈程もある。燭を照らして奥の方を見ると氷が凝つている。それは玉○をしいたようにもあり、銀柱をたてたようにもある。
という意味だが、『豊後国志』巻之三、寶膩湯の条には、 塵添○嚢抄云。豊後国速見郡温泉数處。其中有一處出四湯。珠灘。等峙。寶膩是也。
其湯東西有石室。冬夏凝氷不消。○引一書一日。開石門。望見如倉。可一丈。
其内縦横可方十丈。照燭膽奥。遍室氷凝。或如○玉摶。或似竪銀柱。時屬三炎。採氷百数。人人自足。今按別府地方多出温泉。而慶長災後。土壌一變。四湯共失其處。且四湯亦逸其一名。並不可考。と記されている。この記録を見ると「豊陽故事談」の記事と同様のところがある。しかし、場所についてはふれてなく「四湯共、其処を失す」とあるから享和の頃(享和三年…)すに四湯の場所は不明だったのであろう。
しかし『豊陽故事談』には、「此寺の側に湯あり、宝膩湯と名づく」とあるから、おそらく宝膩湯は立石村にあったのであろう。また、珠灘湯(すなの湯)とあるのは、海岸のどこかにあった湯をさすのであろう。等峙湯はさきに記したように、朝見付近にあったのだろうか。
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場 所