鶴寿泉・下の湯・鶴亀泉(「豊後温泉誌」)とも言う。
寛文年中(一六六一-一六七三)領主久留島侯が明礬製造所におとずれたとき、村人たちが新たに浴室を築き入浴の便に供した。久留島侯は大いによろこび「鶴寿泉」と名付けたと伝えられている浴場である。
明治冶三十五年(一九〇二)には浴場が整備されたとみられ、浴場右脇にある石造三角柱碑に滝蒸浴場私設紀念碑明治三十五年三月成立工事監督人加藤佐太郎と記されており、台座には発起人七名(保田清吉・野上和代・加藤佐太郎.岩瀬保彦.本田光五郎・加藤道三・本田林次)の名と石工四名(大分郡八幡村の清水勝五郎.菊谷勝治郎・菊谷治作・森崎松太郎)の名が刻まれている。
明治から大正にかけてのころ、建て物は瓦葺きで問口は五問(約九、〇五メートル)で、多くの湯治客が利用していたという。昭和十年(一九三五)朝日村が別府市・に合併してからは市営温泉となった。昭和十六年(一九四一)の市告示第三五号には「鶴寿温泉」とある。現行入浴時問は、午前七時から
午後八時までであるが、地元の人や宿泊客は午後一〇時までである。
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