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  亀川天然砂湯

 

 

 

● 歴 史

亀川浜田町五-一一にある。古くは亀川汐湯とも呼んだ。 砂湯人、一つ日傘に、二人かな亀川海岸(古市)砂湯を詠んだ虚子の句である。 古くから海辺に温泉がたくさん湧き出していたところで、江戸時代末。寛政七年(一七九五)脇蘭室は『函海漁談』に、古市と云には、潮退たる時汀沙より煙立つ。ここを穿てば温泉湧 出、人々自ら沙を左右に推て石菖を敷き、石を枕にして臥すに、其身を藏すほどに温泉湛ふ。熱すればしばらく避て、又浴するに媛適なり。冷なれば浴しながら沙を採れば、底より熱気加りて意の如く媛適なり。久しく浴して厭ふ時は所を移して又穿ち、新湯を開く。と記されている。 明治に入ってからは、亀川、別府ともに砂湯は民問で利用されていたとみえ『速見郡村誌』「内竃村温泉」の条に、汐湯、村東字上浜ニアリ、湯質評ナラス。海浜所々ニ湧出ス。退潮ノ間ノミ浴スヘシ。□□□解凝シ、仙痛ニ亘シ。近傍逆旅ナク浴客ノ数詳ナラス。とある。 しかし、明治中期以後は、観光客を対象にした浴場に脱皮し入湯客を集めた。 昭和八年(一九三三)の『別府市誌』には入浴のしかたについて(上略)浜渚、沙を穿てば温泉随所に湧出ず。潮水一たび落る時は、浴客出でて沙上に○臥し、或は小泓を穿ちて半身を埋め、或は熱沙を執りて体躯を温むるもの多し。とある。また亀川天然砂湯について亀川中央町の宮森静雄氏は 「浜田海岸には砂浜が多く、潮干狩をしたり、天然砂湯に寝たままで沖の白帆をながめた。その頃"亀川温泉夏が来りや、サノ、夏が来りゃ、浜田の砂湯で潮干狩とサイサイ潮干狩……"という唄がはやった」と、昔を回顧した。 施設を施して観光と結びつけた亀川天然砂湯の経営は、昭和五年(一九三〇)にさかのぼる。 同年六月、別大電鉄(のちの大分交通)は亀川町から温泉湧出地四四九平方メートルを借り受け砂湯の経営を始めたのである。その後昭和十年(一九三五)亀川町が別府市に合併してからは、別府市から借地して経営する形となった。当時砂湯上り湯の建物は、今の浜田町五-一一にあった。 戦後、昭和三〇年代になって台風のため大きな被害をうけ、さらに護岸工事が施された(昭和三十六年)ため経営が困難となり、昭和四十三年(一九六八)ごろ経営中止のやむなきに至った。 その後、大分交通は亀川天然砂湯の施設を亀川の旅館組合に貸与したため、旅館組合(組合長甲斐直三氏-加盟二〇軒)では昭和五十一年(一九七六)十一月、新しい経営を始めた。 しかし、海岸埋め立ての工事や、亀川バイパス工事の進展などで砂湯としての性格をうしなってきたため休止することとなった(昭和五十九年三月二日付の大分合同新聞には「五十三年に海岸埋め立て華業にかかって姿を消した」とある)。

場 所