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  鉄輪蒸湯

 

 

 

● 歴 史

風呂本町、井田町、鉄輪上(元鉄輪村-朝日 村)の境界に当るところにある。 古くから開かれた浴場で一遍上人にまつわる伝説が残されている。 「建治二年の春、時宗開祖の一遍上人が、紀州熊野大神の勅を受け、念仏をしながら諸国を遊行。同二年の秋鉄輪の地に到着。鉄輪地獄を埋めてこれを温泉とした。しかし、なかなか地獄はおさまらなかったので、三問四方のところ に特に浄土三部経、法華経などの一字一石を埋め、これを蒸湯として衆生保養の安楽土と変らせた。」と言うのである(南豊温泉記)。 一遍上人は時宗の開祖で、延應元年(一二三九)二月十五日、河野通廣の子として生まれ、松寿丸と名づけられた。寛元三年(一二四五)七才の時、得智山継教寺の縁教律師につき修業する。寛治二年(一二四八)母の死に会うや、無情の理を覚り、筑紫の聖達真叡山慈眼、一向然阿良忠、京都西谷の観智、鎌倉の大覚禅師等に学び、文永十一年(一二七四)申戌遊行の身となった。その後修業と庶民教導のために全国を行脚すること十六年(一二七四-一二八九)に及んだが、正應二年(一二八九)八月二十三日辰刻入寂した。 (一遍義集』『一遍聖絵』『絵詞』)一遍上人が九州に渡ったのは、建治二年(一二七六)で、建治三年(一二七七)秋豊後で修業し速見の里を訪れた。その時、鶴見嶽に温泉を拓き、疥癩の徒を湯治したと一遍義集・麻山集等に記されている。 また、『豊鐘善鳴録』には、釋智真號一遍、本姓越智、豫州豪族河野通廣子--(中略)…建治二年秋遊化豊府、詣鶴見神祠、刻樟樹弥陀號、到鉄輪湯泉、側創松寿庵、-…(下略)…・-とある。 蒸湯の経営について、古くは不明であるが江戸時代初期にはかなりの入湯客があったようである。延享五年(一七四八)の「藤沢表江村方之者差出侯書付」に、それまで入湯人の湯銭を一人当り二四文宛村方で集めていたことが記されている(『高橋文書』)。 その後、宝暦九年(一七五九)七月からは入湯料が三拾六文となり、内二四文を村方へ、一二文を松寿寺へ差出すことになった。 これは、宝暦九年(一七五九)五月石風呂世話人ハ右ヱ門の時、京都御院代様から「松寿庵を長く維持するために湯銭二四文を三六文とし、内一二文を松寿庵に納めるようにとりはからってくれ」という相談があったため、村人の相議によって決定したものである。(高橋文書) 文政十年(一八二七)の「申極覚」をみると明和六年(一七六九)の村方湯銭取高は二四文となっており「(上略)……明和六丑年、湯銭壱人前弐拾四文(松寿寺燈明料を除く) 之内配分別紙取替証文之通未○違乱申問敷事」と記されている。つまり湯銭については、江戸時代を通じて二四文であったことがわかる。 明治に入ってからの蒸し湯については、『豊後国速見郡村誌』(明治初期頃の刊行)に、蒸風呂、熱湯ノ上ニ石ヲ畳ミ室ヲ成ス、人痛処ヲ蒸セハ平癒ス、疝積、□□、膝行等ニ功験アリ、此他戸毎ニ地ヲ穿チ形チ竈ノ如キヲ作リ、茶ヲ沸シ、菜疏ヲ蒸ニ宜シク、其温泉ノ脉絡諸処ニ通シ、熱湯ノ湧出スル事枚挙ニ遑アラス、當村逆旅三拾四戸、浴客一年間大凡三千人以上、諸湯接近セルヲ以テ往復シテ入浴スルモノナリ、と、室の構造、医治効用、付近における地獄の利用、旅宿の状況、湯治客と入湯法などについてくわしく記している。 また、明治四十二年(一九〇九)六月の佐藤蔵太郎著『別府温泉誌』には、蒸風呂は一種の浴場なり、其の構造は熱湯の蒸気を以て身体を温むる仕掛なり。乃ち石室を熱泉上に構へ、其外部は不等辺六角形にして戸口は極めて小隘にし、室内に一大石柱を建設してその周囲に十六個の枕石を設け、以て同時に十六人の患者を臥さしむ、患者は其室内に臥して蒸気に蒸さるる時、患部を拍撃し、或は摩擦して療治を為す」と石室の構造を記している。 また、明治四十三年(一九一〇)の田島大機著『南豊温泉記』に、〔蒸湯の構造〕。 外面は周囲を石を以て閉ぢ、上をも石にて覆ひ、只だ一方に穴を穿ち、いわゆる巌窟のもやうなり。 又、その内部は、四方の角に四個の石あり、是れ佛法護持の四天王に配し、中央に一本の石柱あり、是れ薬師如来を表し、内囲に百十二箇の石あり。是れ阿弥陀佛の三十二相、八十随形好を表し、地中に埋没しある。一字一石の経文は、即ち安楽浄土をかたどりたるものなり(一部漢字省略)。と、この記録は明治四三年の記録である。その後今日に至るまで、内部構造の変革はないという。 ついで、大正十四年(一九二五)稗田武士の『別府温泉』には、その構造を記したあとに医治効能についてくわしく記してある。(上略)蒸湯入口上の薬師如来には、山なす松葉杖が奉納してありますが、之は皆難病者が全治した御礼に奉納したもので、その神効驚くばかりであります。 △蒸湯の効用、手足の屈みたる病 疝癩-筋肉の痛 体内潜伏の悪熱 痰気 喘息痔症(下略) △入浴料 無料公開。 △俗問の伝承、蒸湯は発汗せしむれば神効があり、発汗せしめずして中途出づれば身体に害を及ぼすことがあると云ひます。と記されている。 昭和十年(一九三五)朝日村が別府市に合併してからは、別府市の市設温泉となったとみえ、昭和十六年六月二十四日告示第三五号で示された『別府市市設温泉規定』には、「市内温泉ニシテ市費ヲ以テ管理維持スヘキモノ左ノ通リ定ム」として蒸風呂温泉の名が記されている。 なお、このころ鉄輪では、上澁ノ湯温泉(現澁ノ湯)・下澁ノ湯温泉・上熱ノ湯温泉・下熱ノ湯温泉などが市設温泉規程の適用をうけていた。 戦後になってからは物価の上昇によって温泉使用量も改訂された。昭和二十三年九月一日から、温泉場内広告の掲示使用料は一か年に二五円以内に、温泉階上使用料は五拾円(午後五時-午後九時)に定められた。昭和五十九年度の利用浴客は二万四千六百二十五人であった(「別府市営温泉建物など使用料条例」。(後藤佐吉氏の教示による)。

場 所