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  北浜天然砂湯

 

 

 

● 歴 史

元町(元別府村)海岸。別府港北にあった砂湯。 行くか別府へそれなら頼む砂湯おこしのおみやげを 一平とうたわれた海岸の砂湯は、幾百年もの昔から絶えず湧き出していた。いつの時代の人々も、このお湯にひたって、疲れを癒やし、又自然の神秘にふれていたことであろう。 元禄七年(一六九四)貝原益軒の『豊国紀行』には、(上略)又海中にも温泉いず。湖干ぬれば浴する者多し。塩湯なれば殊によく病を治すと云。凡此辺は東に海あり、東海に向へり(下略)-、と、砂湯を村民が利用していたことや地形について記し、さらに、潮干ぬればかたの内に所々温泉の流れいづ。 潮湯也。病をよく治すとて、入浴するもの多し。(下略)-とも記している。 また、明治初年長梅外は別府にきて入湯した時砂湯の有様を漢詩にしたためている。 別府の沿海には温泉が潮中から湧いている。浴客は潮のひいたときその上に寝て腰をあたためる。砂を穿って身をしづめあたためると病はすぐなおる。(原漢詩)と言う意味のものである。 しかし、海岸砂湯が計画的に利用され始めるのは明治中期以後である。明治三十九年(一九〇六)別府・浜脇両町合併以後は急速に浴客が増大し、砂湯を利用するものも多くなり、明治四十二年(一九〇九)からは町営となった。 砂湯 菊池幽芳 やわ肌をすなに埋めてあふむけにいねたる君かほのあかきかほ 荒川左千代 街したの波打際の砂湯場に宿浴衣きしひとの下りいる 西川義方 臥湯砂湯はやみか浦は今もなおゆあみのさまの神ながらな子 内田正美編 (『別府詩歌集』より) つぎの写真は、明治末か大正初期のもと見られる。明治初年にできた別府港の波止場、砂掛け係の男、安全を見守る漁夫、頭だけ出した浴客、海中につかる男二人などがみえ、はるかかなたには高崎山がかすんで見える。温泉町にふさわしいのどかな風景である。 大正に入るとのどかな、北浜海岸の様相は一変する。資本金一五〇万円の中央別府温泉土地株式会杜が大正四年(一九一五)の会杜創立に先立ち埋め立てを開始し漸次完成した。一方日本住宅休式会社は、埋立地八、○○○坪の部分に文化住宅一八戸を建設したためこの埋立地も市街化してしまった。海の上に街ができたわけである(拙著「ふるさと写真集・別府」)。 これは、北浜砂湯からの視野をせばめることになったが、一方では波静かな砂湯が生まれる結果ともなりその功罪は半ばした。 また、大正四年(一九一五)には、海岸砂湯管理規程が定められ、別府市制が施行された頃まで用いられた。内容は、 第一条、海岸砂湯ハ本規程ニ依リ之ヲ管理ス。 第二条、海岸砂湯ハ入浴料及衣服携帯品管理料トシテ一浴金参銭ヲ徴収ス。 但六歳以上十歳未満ハ金弐円トス。 入浴時問ハ一浴三十分以内トス。 第三条、砂湯ノ設備ハ町ニ於テ之ヲナシ。 其使用ニツイテハ之ヲ請負人ニ渡スコトアルヘシ。 とある。昭和八年(一九三三)『別府市誌』には、(上略)熱砂に身体を埋め、海浜に仰臥しながら悠々春光煙波を賞しつつ入浴するを習慣とす。此の浴法は殊にロイマチス、関節炎、各種筋炎等、医治の容易に奏効し能はざる病症に効験多しと称せられ(中略)、今は別府港の北側及び南側防波堤外に、公設砂湯場を設け、市の直接管理に屈せしむ、とある。 それから三年の後、昭和十一年(一九三六)七月十日には砂掛女人夫服務心得が制定された。それは 第一条天然砂湯砂掛女人夫服務は総テ本心得ヲ遵守スヘシ 第二条砂掛人夫ハ交替ヲ以テ毎日午前八時海岸砂湯ニ出勤シ、上司ノ命ヲ承ケ、階上竝ニ周囲浴槽等ヲ清掃スヘシ、終業ノ時亦同シ 第三条潮ノ干満二依リ砂掛出来ル一時問前迄ニ必ズ出勤押印簿ニ捺印ノ上入浴ノ準備ヲ整フベシ 第四条業務ニ従事中ノ礼儀ヲ正シク丁寧ヲ旨トシ、言語ヲ慎ミ粗暴野卑ノ行為アル可カラス 第五条従事中ト否トヲ問ハス入浴者ヨリチップ其他如何ナル名目ヲ以テスルモ金銭物品贈与ヲ受クルコトヲ得ス 第六条入浴終リタルトキハ浴衣ヲ洗濯シ適富ノ措置ヲ講ズヘシ 第七条天変地変其他変時ニ際シテハ直ニ出勤上司ノ命ヲ承ケ建物其他器具什器の保護ヲナスヘシ。 第八条砂湯備付ノ器具什器ハ丁寧ニ取扱ヒ段損亡失等ナキ様注意スヘシ 第九条本心得以外必要ノ事項ハ総テ温泉課ノ指揮ニ従フヘシ 附則 第十条昭和十一年七月十日ヨリ之ヲ施行ス というもので、砂掛人夫が服務するに當って堅く守るべき事を列記したものであった。 これによっても、海岸砂湯が観光資源として大きく期待されていたことがわかる。 またこのころ、天然砂湯を医学上の面からも拡張すべきであるとする意見が別府市医師会から出された。「別府市衛生及温泉改善に関する意見」(昭和八年八月、別府市医師会案」)に天然砂湯は古来別府温泉の他に優る最大天恵にして療養上重要なるものなりしが、目下築港、埋立其他の設備に厭迫せられ見る影もなき状態となり、只僅かに昔の一小部分を留め貧弱なる現状となりしは痛嘆に堪へず。之れは別府市として最も反省すべき重大事にして大浴場建設の比に非ず。 然れば、北浜海岸一帯を一大浴場となし、成る丈け奮態に復して天下の誇となさざる可らず。……(以下略)。とある。しかし、戦後になって昭和三十九年国道十号線の拡幅や海岸整備のため廃止することになり、昭和四十年(一九六五)十二月一日閉鎖、同四十一年四月に廃止された。海岸開発のぎせいになったのである。

場 所