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  亀陽泉

 

 

 

● 歴 史

古くは新湯亀川中央町一二(元亀川村)にある。古くから開かれた浴場。明治三十七年(一九〇四)上田延成『大分県杜寺名勝図録』には、(上略)・白亀塚の南一丁余を距ル或部分ノ土地、毎年栽培スル作物ノ早熟スルヲ奇トシ。 明治二十七年ノ春里人ト謀リ試掘セシニ、果セル哉、霊泉湧出ノ箇所二口掘ス、諸人其一チ歳以前ノ旧記ノ虚ナラサルヲ驚駭欣喜シ吉辰ヲトシ、沐浴身ヲ清メ、香焚地ヲ潔メ、以テ茲ニ温泉場ヲ再其スルニ至ル、即チ今ノ亀陽泉是ナリ、(下略)と浴場創設当時のもようをくわしく記している。ここで言う里人とは高橋重基のことである。 高橋重基について、白潮道人は「明治聖世に至リ彼ノ清原夏野公(現亀川郵便電信局長の先祖)の後裔タル亀川ノ里人高橋重基ナル者、之ヲ旧記中ヨリ発見シ明治二十七年ノ春有志等ト謀リ試掘セシニ霊泉湧出ス、是即チ亀陽泉ナリ」とある(『亀川温泉みやげ』) また、同所の銅板画によると、当時の建て物や施設は棚をめぐらした塀の中に平家建ての亀陽泉と汐湯があり、近くの海岸には砂湯があったことがわかる。 それから六年後、明治四十三年(一九一〇)田島大機の『南豊温泉記』をみると、同温泉は、すでに二階造りの宏壮な浴場構えとなっている。 二階は眺望がよく、この部屋では客人の需に応じて酒やさかなを出すことができるようにしてあった。なお、そのころすでに砂湯、滝湯、蒸湯などもつくられていたという。 湯槽については、佐藤藏太郎の『別府温泉誌』に「亀陽泉は四の湯温泉とともに、二層で湯槽は石で周囲を畳んであった」と記されている。 この頃付近には、室屋.浜屋.緑星.平山旅館・はかり屋・油屋・さわ屋・馬車駐車場.郵便局.駐在所などがあった。(明治四十一『亀川温泉みやげ』) 大正期の亀陽泉については、同十四年(一九二五)稗田武士の「別府温泉」によれば、泉質は塩類泉で無色透明。無臭で無味。温度は泉源摂氏五四皮。設備は充実していたとある。 建物は二階建で、階下は男女浴室とし、階上を浴客休憩所兼料亭にあてていた。 浴場は、湯滝一、砂湯三、泉浴は一ツ宛男女浴室に設け、旧浴場は、その前庭に保存され無料で開放されていた。 また、当時特色とするところは、浴後階上で軽酒佳肴を命じ、温泉趣味を味ふことができたという。 昭和に入ると別府は飛躍的に観光都市として発展する。昭和三年には中外産業博覧会。 昭和十年(一九三五)には、亀川町の別府市への合併。昭和十二年(一九三七)には国際温泉観光大博覧会などがおこなわれた。 亀川だけがその埒外であることはできなかった。観光地として次々と脱皮していったのである。 亀陽泉が亀陽泉千人風呂となったのは昭和初期のことであった。また同温泉が、市費をもって管理維持すべき温泉浴場となったのは、昭和十一年(一九三六)のことであった。 その後については、戦局がしだいに苛烈となり、観光客が激減。入湯観光客はほとんどなくなり、広い千人風呂の中には地域住民の姿だけがあった。(干人風呂)戦争が終って三年目、昭和二十三年(一九四八)の「別府市営温泉建物及敷地使用並に使用料条例」をみると、 別府市営温泉建物設備及敷地並外廓ヲ使用シ、又ハ其ノ区域内ニ物件ノ掲揚ヲナスモノハ、左ノ範囲内ニ於テ使用料ヲ徴集ス、但使用料ハ許可ト同時ニ之ヲ徴集ス 一、亀陽泉階上使用料 階上大広問昼問金弐百円 夜問金参百円 昼夜問金五百円 (下略) とある。 なお、亀陽泉に付属している鉄筋二階建ての亀陽泉会館は、昭和四十年(一九六五)十月十五日、別府市が建設したものである。当時地元亀川本町自治会が建設協力金九〇〇万円を市に寄託した。これまで温泉及び集会場は同町自治会に利用されていた。 月額使用料は、四十年から十年問は二万円。四十九年四月の更新で現在(昭和五十九・三・二十一)まで二万八、○○○円。同五十九年四月から三万八、○○○円に引き上げられた。 昭和五十一年当時は午前六時半から午後十時半までの一六時問営業。入浴料はおとな五〇円、子供一〇円、回数券は三〇回分六〇〇円であった。ところが、昭和五十八年亀陽泉案内には右のごとく利用価格が記されている。 よろづよに、あとをとどめて亀川のながれつきせぬ里ぞめでたき(佐藤藏太郎)
 

場 所