別府歴史資料電子図書館  トップ浴場総目次

 
 

  高札の湯

 

 

 

● 歴 史

高札場の湯・掲示場湯ともいう。元別府村の高札場付近にあった浴場。明治初年の『豊後国速見郡村誌』温泉の条に掲示場湯、湯質硫礬気を混ス、疝癩、悪瘡等総テ諸腫物ニ効アリ、浴場二ケ所。と記されていることから古くからあった浴場だったことがわかる。 明治二十一年(一八八七)加藤賢成著『豊後名勝案内』に、○医治効用楠湯に同じ。 ○高札場ノ湯市街ノ中ニアリ。 ○温度五六度。 ○泉質楠湯同シ。 ○性状無色清澄ニシテ、微ニ甘味アリ。 と記され、明治二十年(一八八六)七月「大分県第二部衛生課報告」所収の温泉成分には「リーテル」に含有せる固形分○・七六二二、遊離炭酸多量、重炭酸石灰多量、重炭酸苦土少量、重炭酸亜酸化鉄多量、硫酸石灰痕跡、コロール化合物少量、重炭酸アルカリ塩類なし、硫酸塩類僅微、硅酸塩類少量、カリウム塩類痕跡、ナトリウム塩類僅微、石灰塩類僅少、苦土塩類梢少量、礬土塩類僅少、重炭酸アルカリ僅微、燐塩類痕跡、有機物僅少(佐藤藏太郎著「南豊温泉記」、と記され、同二十一年(一八八七)佐藤藏太郎の『別府温泉記』には、高札の湯、俗間伝稱の効能、不老の湯に同じ、医治効用、不老の湯に同じ、とあり、同二十九年(一八九六)佐藤藏太郎の『南豊温泉記』には、高札の湯、炭酸性単純泉、.温度五六度七所在速見郡別府町、とある。 明治中期には、かなり入浴者の多かった浴場であったことがわかる。(掲示場湯) なお、付近には江戸時代を通じて高札場があり、次のような高札が立てられていた。それには定切支丹宗門は累年御制禁たり、自然不審成るものこれあらば申出づべし、御褒美としてばてれんの訴人銀五百枚いるまんの訴人銀三百枚たち帰り者訴人同断同宿並宗門訴人銀百枚右の通下さるべし。 たとへ同宿宗門の内たりといふとも、申出づる品により銀五百枚下さるべし。隠し置き他所よりあらはるるにおいては、其の所の名主並五人組迄、一類共に可被行罪料者也 正徳元年五月 奉行 と書かれていた(福田紫城「名勝史談」。

場 所