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  楠温泉

 

 

 

● 歴 史

楠湯。養寿泉とも言う。楠町九番一〇号(元別府村)にある。 古くから開かれていた浴場。江戸時代末の「諸用留」安政二年(一八五五)七月二十九日の条に、「昨廿十八日、雷鳴有終日大雨降(中略)、夫より南原辺田地土砂入、大水ハ海辺ノ家ノ屋敷にせかれ、水はきかね楠湯大潰レ」。 とあるから、創始は古く安政以前であることがわかる。 その後、慶応元年(一八六五)二月には、別府に潜伏した井上聞多(のちの井上馨)が入浴し病をいやした話は有名である。 明治に入り港ができると、別府の人口は急速に増加し町らしくなっていった。自然的に楠湯の入浴客も増加し浴場はせまくなった。そのため、明冶七年(一八七四)になると浴場改築の議が起り、準備金や寄附金によって改築することにした。同七年五月の「新湯再 建寄附」帳には、夫レ温泉ハ造物主ノ作意ニシテ、硫鉄其他鉱物ノ元素ヨリ出テ地中ヨリ湧出スル者、此地稍同種類ノ温泉アルト雖モ、晴雨・寒暖・汐の満干ニ固テ冷熱アリ。今造作スル所ノ新湯(楠湯)ハ性質平常同一ナリ。而テ又萬病ニ効能アル事四方ノ賓客試験シテ 知ヘシ。故ニ今男女入交ノ制度公布セラレ、民庶御趣旨ヲ偉載シ、新タニ入込ヲ差別シ家モ亦再建シ、土地歩○セシムルノ基ニシテ一大美事ト謂フヘシ。近頃四方遊来ノ各位営膳ノ所費衆庶ノ弁利ヲ洞察シ、奇特ノ賓客富少ヲ論セス聊ツ、ノ金円ヲ寄附セラレン事ヲ希望スと前書きしてある。寄附者の中には、豊前中津の野依健吉をはじめ、若木屋、松島屋、若万、若松屋、藤屋、小島屋、玉芳、若吉、筑前屋、紙屋、山香屋、橘屋、関屋、戸次屋、冨平、早崎屋、萬金、森木屋、籠屋、三栄屋、小池屋、夲田屋、仲島屋、若屋、杵築屋、長崎屋、附木屋、張物屋、田原屋、友屋、津田屋、油屋、日出屋、亀石屋、信濃屋、京屋、床屋などの旅館。さらに多くの町民の名が見られる。 工事はただちに始められたとみえ、明治八年(一八七五)亥四月の「新湯修繕集計簿」には、(上略) 〆五百六円六拾七銭三里五毛 内金弐拾円 廣瀬貞義 〃弐拾円 池庭信義 〃六円 女学校杜中 〃六円 荒金市郎 〃弐円五拾銭 児玉新平 〃壱円 佐藤何某 〃弐拾五円 戊年湯銭 〃八拾円 町内 〃拾八円弐拾五銭 瀧川上組 〆金百七拾八円七拾五銭 全引残 金三百弐拾七円九拾弐銭三厘五毛 一、金弐百四円 御拝借分 一、金百弐拾三円九拾弐銭三厘五毛借入分 右之通御産侯也 明治八年新湯修繕 亥四月 セ話人 〃松尾彦七(在印) 〃松尾孝七(在印) 〃河村鹿三(在印) (欠) 〃 書而之通相違無之候 別府浜脇両村温泉 明治八年四月十五日 修繕掛 帆足通典 内 山田三郎(在印) とある。同八年四月十五日には、すべてが完成したと見るべきであろう。 ついで同八年(一八七五)頃とみられる『別府村誌稿』に、温泉、楠湯質温ニシテ鉄気ヲ以テス、疝癪・節疾・腫物等に宣シ、湯場三ケ所、当村内逆旅四〇戸、浴客凡ソ壱ケ年六千人、諸湯往復シテ入浴スル者ナリ、(『速見郡村誌』にも同一の記事がある) とあり、明治十四年の大分県統計表(昭四十八、「別府市誌」)には年問浴客数二四、九〇〇とある。 明治初年から広く知られた温泉であったことがわかる。 明治中期になるとかなり遠くからの入浴客があったもようで、明治十八年(一八八五)一月には、朝鮮国の総理池運永が来別して入浴し、薬効のすばらしさを宣伝している。 さらに、明治二十年(一八八七)には、京都瑞龍寺の住職兼僧正村雲日栄が別府に一泊。同温泉に入浴。「養寿泉」と名付けたという。(佐藤藏太郎『別府温泉記』) 明治二十一年(一八八八)『別府温泉記』には、(上略)…・-諸症に宜し、腫物・悪瘡の類は、初此湯に浴して疾根を発表せしめ、而して復不老の湯に浴し根治すといふ。と記した。当時楠湯には、 一、男女混浴いたすまじき事。但し親子兄弟など介抱のためやむをえず情実これあるものは、用務所へ届出致すべく候事。 一、客店と浴室との問に裸体は勿論、猥醜の姿様にて往復致す間敷事。 一、髪ならびに衣類その外すべて汚物を洗間敷事。 一、婦人月経など身體頗る不潔なるはもちろん、其の他みだりに土足のまま入湯致す問じきこと敷事。 一、湯場にて髪又はひげをそる間敷事。 一、入浴中猥醜の挙動は勿論、謡歌、浄瑠璃其他ひせつの談話致す問敷事。 一、脱衣着服など、他人の衣類と混同せざるよう各自必ず棚に取りまとめ、決して室外に乱置致す間敷事。 一、浴場にて煙草喫し問敷事。 一、壁柱などにらくがき或は貼紙など致す間敷事。 一、病気の者は、別して長湯致す問敷事。 一、酔気を帯たる者は入浴致す間敷事。 右之條々違背致す問敷者也。 明治十年八月速見郡別府村用務所(原漢文) と記した掲示がかけられていたという。明治十年八月に掲げたものがそのまま使用されていたものであろう。 また、同二十一年(一八八八)加藤賢成『豊後名勝案内』には、楠湯ハ、石ニテ浴場ヲ作リ、男湯、女湯の二池に分つ、最も清潔ナリ、温泉ハ大ナル楠ノ側ヨリ湧キ出ズ、因テ湯ノ名トス、浴室ハ瓦屋ニテ板塀ナリ……(下略)…・ とある。明治末期の状況については、同三十九年(一九〇六)「豊後有名温泉之図」に、楠温泉、巨大ナル楠樹アリ、傍ヨリ湧出スルヲ以テ稱アリ。 とその語源について記し、同四十一年(一九〇八)加藤十次郎『豊後温泉誌』には、(上略)其楠樹の残株は現存している。湯池は石を以て造り、餘流は溝渠を経て海に入るやうになって居るので満潮の時は、海汐が浸入するから、入浴者は、能く時問を計って干汐の時を擇ばなければならぬ。と記されている。 大正のころは、不老泉・霊潮泉・東温泉(浜脇).西温泉(浜脇)・竹瓦温泉(乾液泉).畦無温泉とともに別府の七大温泉に数えられていた。 ついで、大正三年になると二、九八五円(一書には三、一五八円とある)を投じて改築がおこなわれ面目を一新した。 同年六月二十一日の落成式における工事報告には、 工事報告 楠温泉新築成リ、本日ヲ以テ落成ノ式ヲ挙ケラル。不肖職ニ其局ニ在ルノ故ヲ以テ工事報告ヲ爲スノ光栄ヲ有ス。抑モ本泉ノ構造ハ、本家平家建壱棟。建坪参拾弐坪。玄関庇シ家根坪弐坪弐合。附属便所壱棟。建坪壱坪四合六勺弱ニシテ、其他浴槽、水溜、湯壷、下水溝等ヨリ成ル。而シテ更ニ之レヲ細別スレバ、本家ハ軒高地盤ヨリ端母屋上端○十七尺一寸。天井高サ浴槽面ヨリ十八尺八寸。浴槽ハ全部磨キ花崗石ヲ以テ作リ、湯壷ノ周囲ハ堅石ヲ以テ積ミ主トシテ堅牢ヲ期シタリ。 総テ設計ノ内容ハ限定サレタル豫算ノ範囲内ニ於テ彼是酌量取捨シ、真材料ノ撰擇浴槽・水溜・湯壷・下水溝等ノ構造ニ於テ頗ル意ヲ用井、起工後百五十日ノ工程ヲ要シ、費額又弐千九百八拾五円ニ上リタリ。 然レトモ構造外観共ニ未タ理想ニ叶ヒタリト伝フ可カラサルモ、町有温泉トシテ敢テ遜色ナキヲ信ズ。 由来本泉ハ、樟樹ノ根底ヨリ湧出セル一種独特ノ霊泉ニシテ功験頗ル顕著ナレバ、本新築ト共ニ将来益々名聲ノ発揚センコトヲ希望シテ止マス。 終リニ臨ミ委員及ヒ世話人諸氏ノ工事監督上熱心尽力セラレタルコトヲ衷心感謝セントス。 右報告ス。 大正三年六月二十一日 工事主任第二課長 別府町書記 笠置雪治 その後は、大正十三年(一九二四)市制施行によって町営から市営となる。当時の状況について大正十四年(一九二五)稗田武士の『別府温泉』には、浴舎の北側に、楠公園と稱する浴客無料休憩所があります。一隅の巨木楠の根元には薬師如来を安置--浴槽広く極めて清麗な温泉。自然湧出の温泉も多量に湧いて居ります。 と記されている。同十四年市設温泉に該当する浴場となる。 なお、とこに記された薬師如来の線香立てには「奉献、天保癸卯十月吉旦、世話人、田仲屋熊吉」とある。 そのころ浴場は無料公開で民衆的大浴場としてのきこえが高かったという。 温泉の効用については、昭和二十五年(一九五〇)高安慎一著『別府温泉療養案内』に温泉名 楠温泉、市有所在地 楠本町筋泉質 含炭酸単純泉主タル医治効能ロイマチス・神経痛・皮膚病・腫物・婦人病とある。 昭和十三年(一九三八)『別府市勢要覧」によれば、一日入浴者数は、男子二、〇六四人、女子二、一三八人、計四、二〇七人であった。

場 所