一名清華泉、又の名を西温泉、のち浜脇温泉となる。浜脇一丁目(元浜脇村)にある。
古くから開かれていた浴場で、明治のはじめ東温泉(弦月泉)とともに設備がととのえられた。
当時は、切妻造りの木造瓦菅きであり、板塀で囲まれ、木造の開き戸があったという。
温泉の状況については、明治十年以後と見られる『豊後国速見郡村誌』に、西湯、湯質鉄気ヲ混ス、疝癪、筋質、腫物等ニ宜シと記された。
脇蘭室(文化四年) ここもまた温泉につれて旅人のいとど寄来る浦のしら浪
ついで、同十二年(一八七九)には、入母屋造の瓦葺き浴舎が新築され、清華泉の扁額が掛けられた。
また、客をさそう手段としては、窓を設けて屋内の通風をよくしたり、入口廊下いろいろな施設を施して浴客をさそった。
この温泉について、明治二十一年(一八八八)加藤賢成の『豊後名勝温泉案内』には、西ノ湯ハ、浜脇街ノ中ニアリ、浴室ハ瓦葺ニシテ浴場ハ石ニテ構造シ、浴地ノ底ニハ細沙ヲシキ、湯ハ沙ノ間ヨク湧キ
出ツ、浴場は九ケ所アリ、温度同シカラス、と記したが、更に別に浅い浴場や砂を入れた泥湯が設けられており、温泉は暗黒色半透明でかすかに硫化水素の臭気を放っていたということが記されている。
ついで、明治三十九年(一九〇六)『豊後温泉之図』には清華泉は、俗間称して西の温泉と云ふ。 三十七年浴場を改築し、三層の棲にして勧商場の設備あり。
本泉の性質は帯黄青色半透明にして、微に酸化水素の臭気を放ち、其反応ハ酸性ニして煮沸す連ば、亜児加里性(アルカリ性)を呈す、(後略)
とあり、明治四十一年(一九〇八)の『豊後温泉誌』には、(略)一名西の湯と呼で平家の小規模であったが、一昨年改築して宏大なる三層棲とした。此所は普通と上等とに区別されて、上等は入浴料金五銭である(下略)と記した。
この記録によると「一昨年改築」と記しているが、一昨年とすれば、明治三十九年のことであるが、明治三十九年の『豊後温泉の図』には明治三十七年とあるから、清華泉(西
の湯)の改築は明治三十七年(一九〇四)とすべきであろう。
ついで、明治四十二年(一九〇九)佐藤藏太郎の『別府温泉誌』には、三層棲建等のもようがくわしく記されている。
明治三十四年五月中、新たに一場の改良温泉場を設けることを議定し、直に温泉改良専務委員七名を選挙す、高橋欽哉、濱崎丑治、家近久兵衛、佐藤綱五郎、森米吉、藤澤徳三、永井三藏是なり、委員は更に高橋欽哉、濱崎丑治二人を主幹に選挙し、専ら工事監督其他の任務に当らしむる事とし、翌三十五年先づ其工事の準備として同地入江町、船入場の埋立工事、白浜船入場工事、同薬師川変更工事、及び新泉場敷地買入等に要すべき費用を支出し、翌三十六年
度に於ては、右浴場改築及び新家屋建築費を支出し、以て其工事を進め、三十七年三月に至り、西温泉場は改良工事竣工を告げ、次で同年五月に至り、東温泉場亦た改良工事
を竣へ、是れと同時に新温泉場も全く落成するに至りたり、其総数敷地及び建物の坪数は左の如しとす。 一、敷地総坪数四百十五坪
一、建物坪数二百六十六坪五合 一、三階建和洋折衷百二十九坪五合 一、平家建和洋折衷百三十二坪 一、附属建物十四坪
と、ついで翌明治四十三年(一九一〇)二月二十二日には西温泉建物貸付規程が議決制定された。その内容は次のようなものであった。
西温泉建物貸付規程(明治四十三年二月二十二日議決) 第一条、西温泉建物及之ニ付属スル建物一棟並ニ寄席ハ本規程ニ依リ各別ニ之ヲ貸付ス、
第二条、西温泉建物及附属建物ノ貸付期問ハ三ケ年ヲ以テ一期トシ寄席ハ一ケ年ヲリテ一期トス、 第三条、建物貸付方法ハ競争受負入札トス、
第四条、競争入札ハ豫定價格以上ノ最高ヲ以テ落札トス、但二名以上同額アルトキハ抽籖ヲ以テ之ヲ定ム、 ・-…(中略)……
第十七条、受負人ハ左記各項特ニ承認スヘシ、 一、上等入浴人ニ対シテハ不都合ナキ様待遇スルノ責任アル事、並ニ優待券ヲ付與シアル者ニ対シテモ亦同シ、
二、家屋内外ニ要スル入浴人ノ需メアル時ハ飲食物ヲ供給スル事ヲ得、 三、温泉棲上ニ休憩スル入浴人ノ需メアル時ハ飲食物ヲ供給スル事ヲ得、
四、温泉ニ附属シタル不浄物ハ町ノ所得トス、 五、営業ニ対スル諸税金ハ受負人ノ負擔トス、 附則
第十八条、本規程ハ議決ノ日ヨリ之ヲ施行シ第二条ノ期間ハ明治四十三年四月一日ヨリ起算ス、
その後、この三層の大浴場は昭和二年七月二十四日東西両温泉が合併するまで西の湯(清華泉)として続くが、大正十四年十一月の稗田武士の『別府温泉』には、
(上略)三層の大廈で、階下を佳麗なる浴室に、二階を浴客休憩場に、三階棲上を料亭(三日月亭)に充ててあります、浴場は、上等湯、並湯、に区別し、各男女別槽、-・・
(中略)……本泉の湧出口は、東温泉についで多く、合計十個、内最高温度(撮氏)五十七度、最低温度(同)三十七度、 とある。(浜脇温泉・清華泉)
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場 所