流川通り入口附近(元港町、楠町一七)にあった大浴場。明治中期に開かれ「新湯」とも「浜の砂湯」とも呼ばれていた。
明治二十六年(一八九三)の大水害で大破したが、同年ふたたび復旧された。
明治四十一年(一九〇八)『別府温泉誌』に、湯槽を十数区に分ち、其中に又深いのと浅いのとあって、浅いのは漸く脛を没するにすぎぬ位だが、これがなかなか効能があるので、浴者は湯槽の禄を枕に池中へ優臥し…(下略)と記された温泉で、海浜にあったため満潮の時は温度が低下していたという。また、このころ同浴場の向い側には港区民によって造られた蒸湯と滝湯があった。なお、温泉の効用については、明治四十二年(一九〇九)『別府温泉誌』に、内用では慢性胃腸病、全身病に効能があり、浴用では慢性呼吸器病、骨諸病、皮膚病、慢性炎症、泌尿生殖器病にいちじるしい効能があったと記されている。ところが、何しろ明治二十六年(一八九三)の浴場であるため老朽化がひどくなり、大正初年にはすでに使用にたえなくなっていた。
大正六年(一九一七)になると別府町は五、六一四円を投じて純日本式木造瓦葺き平家建に改装したため、入湯者は急速に増大した。
稗田武士『別府温泉誌』には、大正期の同浴場について、「設備は砂湯が八個、泉浴二個を男女に等分、名物蒸湯二個、揚り湯泉浴二個であった」と記されている。
入浴料は無料で浴場入口上には「霊潮泉」と書かれた日置黙仙禅師の扁額が掛けられていた。内部には、大分県尋常師範学校兼尋常中学校前教諭、日出藩医員宇都宮健の撰書扁額が掛けられていた。
これは、明治二十六年の新築に当り、文案を宇都宮健に依頼し作成したものである。
その後、この浴場は、別府の代表的な大浴場として入浴客は急速に増加。改築の必要にせまられたため、湊町区和田彦蔵ほか十二人による寄付金三八九円に市費約五九〇円を加えて増築した。(大正七・三・二十七「第二町会一号議案」)しかし市制施行がおこなわれた大正十三年(一九二四)にはふたたび災害に合い再建された。
そのとき建てられた浴舎は、戦中戦後を通じて広く市民に親しまれた。
昭和前期の状況については、昭和八年(一九三三)『別府市誌』に(上略)本温泉の特色は、潮満つる毎に、海水浴場内を洗滌し、潮退けば、暖砂に患部を埋めつつ、仰臥しながら快浴し得るにあり、蒸湯は全身を蒸しつつ、天然的蒸気吸入を為し得る便あり」と記した。
戦後になってからは、市勢の北進とともにささびれ建てものは光町に移され別府市柔剣道会館に転身、青少年の育成に利用された。
一方、浴場の跡には、昭和三十年(一九五五)に大分県物産観光館が建てられたため浴場は地下にもぐった。
その後、昭和四十六年(一九七一)県物産観光館が国観港の別府交通センターに移り、三階建の建て物は別府市に移管された。
しかし、建物はとりこわす予定が、はじめの通りでよいとなったため、地下の温泉浴場はそのままだったので、使用にたえなくなり、昭和五十年七月末を以て閉鎖した。(昭和五十・七・十八「大分合同新聞」)県観光物産館は、のち「別府市ふるさと館」となり郷土関係の有形資料を展示したが、昭和五十九年(一九八四)三月三十一日、市美術館の開館とともに閉鎖された。
●
場 所