大字野田字柴石(元野田村)にある。 切り石を組み介わせて部屋割りをした上を巨石でおおい蒸湯としたのである。
創始年代については不明だが、江戸時代末期には造営されていたとみえ、「文化四丁卯年十二月吉祥日長泉五世崑誉造営丐、赤山玄海口書」と刻まれた石殿や、
「南無阿弥陀仏、天保五甲午歳、十一月廿五日造立」と刻まれた石塔がある。
明治になってからの蒸湯については、『豊後国速見郡村誌』野田村温泉の条に、蒸湯、壱ケ所、蒸気盛ニシテ、湯坪ノ上ニ木ヲ横テ床ヲ架シ、上ニ土ヲ敷キ、上及ビ四方石ヲ構シ、窟室ノ形状ヲナス。壱戸ヲ穿チ浴客ノ出入ヲ通シ、浴客其中ニ臥ス、能ク凝シ、腰痛疝病ニ宜シ、此地渓水温泉ノ傍ヲ流レ、風景幽邃愛ス可シ。此地温泉処々アレトモ極メテ小泉ニシテ、唯土人ノ浴スルモノアルノミナレハ更ニ記載セス、〔以上赤湯、蒸湯ハ接近セルヲ以テ、浴客往来シテ浴スルナリ。
とある。ここに記する赤湯とは、血の池地獄のことではない。柴石にある石造浴場のことである。
その後は、明治・大正・昭和と長く地域住民や浴客の期待にそい、別府観光に一役を果して来た。
しかし、昭和六十一年(一九八六)になって、九電別府営業所が九電工事別府営業所に委托して、柴石温泉近傍でコンクリート電柱の立て替え作業中、誤って同温泉の岩風呂式
むし湯の屋根に接触したのが原因で内部の柱に亀裂が生じ危険な状態になった。そのため補修工事を十一月一日着工。割れ目のできた右程をとりかえて補強した。
●
場 所