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  柴石温泉

 

 

 

● 歴 史

しばせきの湯赤湯とも言う、柴石温泉場(大字野田)にある。明治十四年『大分県統計表』には浴客数四〇〇とあり、明治四十二年(一九〇九)の佐藤藏太郎著『別府温泉誌』 に、「柴石の湯口は渓東の巌下に在、其構造は巖石に據り、石を以て周囲を畳み、温泉一方の巌隙より湧出す、極めて清潔なり」と記したが、この頃既に温泉旅館・仲屋柴石園があった。 また、同四十三年(一九一〇)田島大機は『南豊温泉記』にも浴場のことについては同様な事が記されている。 彼は更に同温泉の縁起について「後朱雀院の太子親仁親王、御重病に罹り、医治の道、絶へさせ給ひけるに霊夢に感ぜし為め、柴石温泉に御湯浴あれば、病ひ忽ち平ゆす。依て薬師如来の堂宇を建立し、長泉寺と名け給へり。と記し、さらに付近の勝地として御枕石、古薬師の一本杉、聖山の静観、山田川の清流、赤陽坂の石仏、柴文の奇石、男滝、女滝、柴石公園などをあげている。 なお、この温泉は、無色透明で炭酸泉性の鉄泉である、いまの柴石温泉は、古くからあった柴石の湯・蒸湯・滝湯などを一体化した綜合的な市営温泉場である。 この浴場は、渓間に立地しているため、豪雨のたびに水害に見舞われていたことや、駐車場がないために車による入湯客が立ちよりにくいという難点があった。 昭和五十一年(一九七六)九月の台風は、稀に見る豪雨をともない、柴石川がはんらんし滝湯は潰滅状態となった。しかし昭和五十八年(一九八三)の春、渓流の滝湯や浴場が改良されたため利用者はしだいに増加の傾向にあった。


場 所