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  柴石滝湯

 

 

 

● 歴 史

他から湧くお湯は元より天からも降る湯滝あり柴石の里 (寒心斉) ・浴後の身 仙化す 男滝女滝かな (白潮道人『亀川温泉みやげ』) 柴石温泉場は、規模は小さいが山間の渓流に沿う温泉地で、古くから滝湯の設備が設けられていた。 明治四十一年(一九〇八)の『亀川温泉みやげ」には左記の句が記されており、同四十三年(一九一〇)の『南豊温泉記』に男滝・女滝のことが記され、さらに大正四年(一九一五)林通教・溝口信太共著の『別府温泉案内』に、御越町大字野田で規模は小さいが、高山趣味と富んでいるから、夏の保養地としては絶好の地である。含鉄炭酸性の温泉が豊富に湧き出で、有名な滝のある処だ。と記されていることから、大正期にはすでに著名な滝湯になっていたことがわかる。温泉場はその後昭和十年ごろまで御越町(亀川町)に属していたため、その発展は亀川町の消長と深い関係をもった。 大正末期から昭和初期にかけて温泉廻遊道路が整備され、馬車にかわってバスが運行されるようになると、湯治場としての声価も高くなり、滝湯の入湯客も増加した。 ついで、昭和十年(一九三五)九月亀川町が別府市と合併。翌十一年四月二十日柴石温泉が別府市営になったとき、一時的ではあったが入湯客がふえたという。 しかし、戦争の激化と共にしだいにさびれ、昭和二十年から戦後にかけては静かなさびしい湯治場となった。 その上度重なる災害、中でも昭和五十一年(一九七六)九月の台風では柴石川.山田川)がはんらん。旅館を含む家屋二軒、滝湯などを押し流し大きな打撃を蒙った。しかし、昭和五十三年(一九七八)五月には復旧し現在に至っている。 しかし、その後温泉がストップしたため、昭和五十九年(一九八四)十一月から閉鎖し、新しく泉源を掘さくすることにした。 工事着手の地鎮祭は同六十年(一九八五)五月十六日関係者が出席しておこなわれた。 工費は三百五十万円(深度百六十メートル)工期は六十日問の予定であった。 なお、同浴場の西側にはむし湯、南側渓流に沿って滝湯などがある。 (赤湯・↓柴石蒸湯)


場 所