● 歴 史
・鉄輪温泉を開湯したとされる一遍上人に因んで、「上人湯」とその名付けられたこの浴場は、昭和14年(1939年)、木戸正三氏(下記注1)の開設を発端とする。
※ 注1 木戸正三氏は北九州市小倉出身、氏は北九州で炭鉱や火薬業を営み、当時、鬼石坊主地獄も所有。氏は昭和6年4月に、明治25年から続く長谷川
芳之助創業の泉水炭鉱を買収し「木戸一坑」と改称。財をなした。
時系列でみていくと
・別府では明治末より、施設を備え入場料を徴収する「地獄遊覧事業」が始まる。
・昭和12年10月3日に木戸正三氏により温泉掘削、豊富な
湧出量で高温(当時、摂氏106°)の温泉が噴出。※現在
(2023年現在)の鉄輪バーデンハウスあたり ・昭和16年8月1日、この温泉湧出を契機に、1200坪の敷地に温泉遊覧施設「雷園(かみなりえん
、通称らいえん)地獄」(管理は、永野金次郎氏)としての開園(下地図)。
当時、雷園地獄は地域の地獄めぐり遊覧とは少し趣を異にし、露天風呂・蒸し風呂・蒸気吸入施設・宝物殿など療養施設を有していた。
※当時の地図にも示される通り、「雷園」は「地獄」の文字を使わなかった。
当時の絵葉書、右下に「RAIEN JIGOKU」とある 小野弘氏 提供
創業当時の雷園地獄
上人湯は、この12年と16年の間の昭和14年に、木戸氏の管理する木戸アパート(2階建)に併設し、広く地域の入湯に供したのが上人湯の始まり。
その後、昭和17年 太平洋戦争時、陸・海軍の傷病兵の療養施設として借り上げられたが、戦後は入浴者施設「雷園ホテル」など独自の地獄観光を行った。
「別府の地獄遊覧事業に関する調査」(昭和17(1942)出版 田中喜一・後藤佐吉 共編より)
このような経緯のもと「上人湯」開設当初の源泉は雷園地獄を泉源としたが、
現在は別府市の管理する配湯管から給湯を受けている。
● 改 築
現在の上人湯は平成元年12月に改築され、設計は地域、鉄輪井田の佐藤峯祥 一級建築士。施工業者は矢田建工務店。総工費は750万円。(当時、新聞記事より)
湯気抜きを含む4つの切妻屋根が上下左右に重なる独特な造りで、雰囲気のある木造である。日本瓦と「なまこ壁」を採用したのが特徴。
正面には、改築前からの賽銭箱とともに一遍上人像が祀られている。
建物正面の一遍上人像
浴場は脱衣所と浴室との間に仕切りはなく一体型。内装は壁面上半が板張り、下半分は水色のタイルで仕上げられ、板張りの脱衣所には12個の脱衣箱がある。
洗い場は、レンガ色調のタイル張り。中央の浴槽は長方形で水色のタイル張り。
浴槽(左)・浴槽から脱衣室(右)
● 受 賞
平成2年度には、別府市の自然環境に調和し、地域に親しまれる建物をめざした別府市地域住宅(HOPE)計画の一環であるHOPE賞の最優秀を受賞した。また、関連して、平成7年には、上人湯組合(当時、橋本美好組合長)は「平成7年度まちづくり月間建設大臣表彰」のまちづくり功労者の部で感謝状を贈られた。湯治場としての雰囲気を考慮し、周囲の景観にマッチした建物で、魅力あるまちづくりに寄与したとして高く評価された。
●時代背景
温泉の湧出量では日本最大である別府の源泉の大半が鉄輪に集中している。鉄輪温泉は、歴史は古く、和銅6年(713年)豊後国風土記にも記述され、一遍上人が開湯したとも云われ、湯治場として古くから発展してきた。鎌倉時代(建治2年)に一遍が念仏行脚の途上に鉄輪の地を訪れた際、猛り狂う地獄地帯を鎮め、湯治場(鉄輪むし湯)を開いたのが始まりとされている。そのため上人創設の鉄輪むし湯には一遍上人像が祀られ、また「上人湯」という名の由来もここからきている。
例年9月には鉄輪湯あみ祭りが開催され、県内唯一の時宗寺院の温泉山永福寺にて一遍上人に感謝する湯あみ法要も行われている。
なお、昭和34年の住宅地図によると雷園地獄(地図中右上)の位置が確認できる。
右上に「雷園地獄」の記載、中央上に小さく温泉マーク 「別府市内住宅地図」昭和34年発行 より
・所在地 〒874-0044 大分県別府市風呂本5
※ 県道別府山香線から
鉄輪温泉街を東西に貫く目抜き通り いでゆ坂を50m余り下った右手
・泉質 ナトリウム―塩化物泉
・源泉名 別府市有鉄輪泉源
・お問合せ TEL 0977-66-0316
・入湯料金 100円(入浴札を買う)
・利用時間 10:00〜18:00
・定休日ほか なし
・最寄りバス停 鉄輪 0分
・駐車場 なし
・管理 利用者組合、市有区営の共同浴場 ・道向かいにある「まさ食堂」か「保月」で入浴料を払うスタイル。 ・時期により、一般客が入れない時があり確認が必要。
なお、建物の外構(左側)には、平成9年に句碑が設置された。
「ゆけむりの中の停車場冬ぬくし」菊池輝行
ちづくりグループ「鉄輪愛酎会」の第4回句碑)
明治43年の鉄輪温泉
鉄輪はむし湯を特徴に、半農半宿の湯治場だった。旧藩時代末期の慶応元年(1965)には専業の木賃宿(旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊く、
「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭)は8軒。明治になると「ふじや」「ときわや」など旅館は13軒になった。
大正9年の鉄輪温泉
(大正時代は旅館は少なかったが、昭和3年に亀の井自動車が、地獄めぐり遊覧を始めてから旅館が増えていった)
昭和32年 亀川より鉄輪方面
昭和46年
昭和47年
・ 「鉄輪資料集」浜田博 編
・「編年 鉄輪資料」安部巌編
・ 郷土叢書84「朝日村誌」安部巌編
・ 「別府温泉湯治場大辞典」安部巌著(昭和63 創思社発行)
・「別府の地獄遊覧事業に関する調査」(昭和17(1942)出版 田中喜一・後藤佐吉 共編より)
・ 「別府今昔風土記」編著者 志多摩一夫(昭和52)
その他、安部巌 手書き原稿
2023.2.3 文責 安部浩之(別府歴史資料デジタルアーカイブ(別府教育史料館内))
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