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  竹瓦温泉

 

 

 

● 歴 史

一名「乾液泉」。俗称「竹瓦の湯」。元町一六-二三(元別府村)にある。 古くは竹瓦葺きの建て物であったと言われており興味ふかい。 創設は明治十二年(一八七九)といわれ、明治三十五年(一九〇二)に写真のような建て物の完成をみた。この浴場について「豊後温泉誌」には、・…-(上略)湯池は数区に別ちて臥浴するを得せしめ、他に一つの浴漕がある。此附近 は、数年前までは実に寂蓼の場所だったが、今は四隣に宏壮美観のやどやが出来、浴者の来住繁く、肩々相觸るるの賑かさで、昔の面影は少しもない(下略)。と記された。 そのこ、別府町、浜脇町はともに観光地として発展を続け、明治三十九年(一九〇六)には両町合併。人口六、七九四人の町となり、新らしい行政組織の中で浴場運営がおこなわれることになった。 ついで、大正二年(一九二二)になると、別府町は六、二五九円の巨費を投じ、竹瓦温泉を改築した。この温泉について「別府温泉案内」(大正四年版)には、(上略)時勢の進歩は粗末なことでは捨て置かれず、大正二年五月二階建の宏壮な家に改築した。二階は畳八九十枚を敷きつめ自由に休息が出来る。 …-この温泉場の周囲には沢山の旅館がある、其主なものは、松屋、関屋、鶴万、紀の屋、森星等である。と改築の理由、規模、周囲の状況などが記されている。なお、内部の構造については、昭和八年の『別府市誌』に、浴槽二二個を男女等分に区別し、男女共に泉浴砂湯各九個であったと記されている。 なお、この浴場について、寒心斉著『別府百景』に竹瓦温泉、昔は粗末なる竹屋根葺きの小舎なりしより此名ありとか。又の名を「乾液泉」と申す由、と記した。 花本聴集 ・まづ泊まれ湯もあり春の雨もふる森谷 怒愛庵 ・水打つに別府は温泉を以てせり天江 両江 ・春の夜をいつまで遊ぶ温泉客かな相良 春亭 ・すたり温泉の流るる溝や漫珠沙華 (内田正美偏『別府詩歌集』より) 続・竹瓦温泉 国際温泉観光大博覧会がおこなわれた翌年、昭和十三年(一九三八)になると三万六、六〇〇円で再改築がおこなわれた。入口の屋根はもと単純な入母屋造りであったが、豪華な唐破風造りとなり内部構 造も整備された。そのため入浴客が増加しただけでなく建て物の見学者まで訪れるありさまであった。 このころから、大陸における戦局は次第に拡大。それにともなって別府に訪れる観光客もへり、浴場はしだいにさびれていった。 しかし、戦後になると地理的位置に意まれた同浴場は再び復興し、入湯客も次第に増加。別府の代表浴場として内外の観光客に親しまれてきた。 昭和五十九年(一九八四)七月二十日には、全国向け放送番組「砂湯談義」のテーマで、竹瓦温泉砂湯のもようや、ここで働く砂掛け婦さんや利用客の直接インタービュがNHKラジオで全国に放送され大きな反きょうをよんだ。 なお、同温泉について市当局は、「竹瓦温泉は、一八七九年(明治十二年)に建てられた市内でも古い公衆浴場の一つであります。……(中略)……同温泉には砂湯もあり、砂掛婦が利用者に砂湯の効能があるようにかけております。 泉質重曹泉(合食塩土類重曹泉-昭・三三、温研調)効能神経痛.胃腸病・リュウマチ・婦人病等」と宣伝している。昭和五十九年度一年間の利用者は六万七・一二五名であった。

場 所