上の田の湯・川の湯・野田ノ湯(明治二十一年)とも言った。
田の湯町四-二三(元別府村)にある市営温泉。古くは不老泉の西北一丁余の溝渠中にあり、二槽からなる茅葺き浴場であった。
浴場の創始は、江戸時代とみられるが年月は不明である。 浴場前の空地には薬師を祀る石殿があり、 「安政五稔戊午正月八日 願主 阿部源右工門
同 埜口村中 石工 ヒチ 緒方治平」 とある。
明治二十一年(一八八八)頃は野田ノ湯と呼ばれており、長く村人に親しまれてきた。明治四十一年(一九〇八)の夏、それまでの茅葺きを瓦葺に改築した。当時の浴場について豊後温泉誌には、
二つの大きな湯池を中間から仕切つて、男女の区別をなしてある。之は二ケの湯池相隔る僅々数尺に過ぎないが、其泉質は各同じでない、故に斯くの如き構造にしたのである。と記されている。これまで、田の湯温泉は、現在の道路北側上手(現国民宿舎田の湯館-安田正光氏経営)の庭内にあたるところにあり、鉱泉地二八坪の地で民間の自由入浴となっていた。さらに大正八年(一九一九)六、四六二円で現在地に改築された。
当時の構造は、木造二階建であった。一階浴槽は男女共に上等湯、並湯の二種に区分し、上等湯は男女おのおの一個、並湯は男女おのおの二個であった(安田正光氏の教示による)。
同年十一月八日落成式に当っての工事報告には、 工事報告、
田ノ湯温泉改築成リ、本日ヲ以テ落成ノ式ヲ挙ラル、不肖職ヲ其局ニ在ルノ故ヲ以テ工事報告ヲナスノ光栄ヲ有ス。
抑モ本泉ハ大正七年度町予算会ニ於テ改築ヲ決議シ、直ニ設計仕様ノ編成ニ着手シ、委員並ニ区民諸氏トモ数度ノ協議ヲ遂ゲ完成スルヤ県ニ出願シテ其許可ヲ得、八年四月
請負人ヲ定メ、日夜工ヲ急ギ、始メテ今日アルヲ得タリ。
本建築ハ、平家建参拾九坪半。弐階建拾六坪半。合計五拾六坪ニシテ、構造ヲ純日本式の標榜シ換気ト採光ニ意ヲ用ヒ、殊ニ天然ニ湧出スル温泉ニ変動ナキ様尤モ留意スル
ト共ニ、常ニ清潔ヲ保タシムル為メ、多大ノ困難ヲ排シテ、抜キ下水ヲ完成セリ。 而シテ、之ニ要シタル金額ハ六千四百六拾二円二拾銭ニ上レリ。
右報告ス。 大正八年十一月八日 別府町技手 柴田定
とある。なお建築費のうち三、二〇〇円は大正六年度温泉改良費として積立ててあったものであり(「別府町会記録」)、二、八八六円は貝島栄吉・麻生太吉をはじめ地域住民九二
名による寄附金であった(大正七・一〇・一五「寄付願」)、当時の寄附願には、寄附願(写) 一金弐千八百八拾六円也
右金額田ノ湯温泉場改築費ノ内ニ寄附致度候条御聴許相成度、仍テ寄附人名簿相添此段 相願侯也 大正七年拾月十五日寄附者惣代 安部栄次 (外十名省略)
別府町長 武田綾太郎殿とある。
浴場のもように就ては、同翌九年(一九二〇)松井助松『別府温泉案内』に、"場内には二個の浴槽がありまして、其間は、僅かに数尺しか離れて居らぬのに湧出する温泉の質が同一でありません、一方の湯は透明無臭の清い湯で、一つは梢独り少々臭のする湯であります……(中略)…-・、更に浴場内には特等湯がありまして一人の入浴料金五銭でありました。"と記されている。
また大正十四年稗田武士の「別府温泉」には、○温度、泉源(甲)摂氏四十九度三、泉源(乙)四十八度四、泉源(丙)四十七度八、○入浴時問及入浴料……入浴時問は朝五時より夜十一時まで入浴料は次の規定。
△上等湯--金五銭(十二歳未満金三銭-六歳未満無料) △並湯…-・無料公開
△階上休憩料……一時問以内休憩無料-半日以内休憩料二十銭。-半日以上の休憩四十銭。 以内休憩料二十銭-半日以上の休憩四十銭。
△貴重品無料預り、財布や時計などの貴重品類は、湯番人が一時無料でお預りします。
と記した。なお、昭和九年矢野平次郎は田の湯温泉について次のように詠じた。 そのかみは田甫の中にありしといふ 田の湯の名まへよろしかりけり
名にしおふ田の湯の効めあらたかに善男善女むらがり浴す 派手ならぬ田の湯の附近親しきよ 温泉の場気分は此所にただよう。
ちなみに、昭和五十九年度の浴場利用者は、七万一、七〇三人であった。
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場 所