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  照湯

 

 

 

● 歴 史

御前湯・お茶屋の湯とも言う。小倉町(元鶴見村↓朝日村)にある。 この地は、石垣原扇状地の西北端、春木川の上流左岸にあたり、慶長六年(一六〇一)二月以降玖珠郡森藩主久留島康親の所領になった鶴見村の内である。 鶴見村については、正保四年(一六四七)の郷帳に高六百六拾弐石五斗五升内 弐百三拾四石三斗三升弐合 田方 四百弐拾八石弐斗壱升八合 畑方 久留嶋丹波守領分 鶴見村茅山有日損所 と記されている。 小倉の春木川畔に照湯の浴場が造られたのは、江戸時代末の天保初期であったと言う。 領地巡見のため鶴見に来た八代久留島伊予守通嘉が河岸の荒廃を慨嘆し、手島芳策を工事主任とし、大庄屋直江雄八郎重枝・庄屋佐藤忠左衛門などに命じて大きな温泉場を築かせた。 その施設には、浴場・お茶屋・湯滝・築山・庭園などがあったという。 なお照湯の創記については、一書に、・…(上略)……尚公は其の後引続いて速見郡鶴見の温泉場に別荘を建て之を照湯と名付け鶴見八景の図及び照湯の由来記を作製発表した。その中の和歌は飯田教忠・伊藤重 枝、書は山内香雪、画は園田兆洞・春木南溟等である。この工事も亦主任は手島芳策で…-(中略)…・-。又この工事の創起及び落成年月は不詳であるが御系譜中に、天保十三年(一 八四二)九月二十一日及び同十五年 月六日の両度照湯へ湯治の記事がある。これより推して工事は天保十一年乃至十二年の起工と思はれる。」 と記されている。 当時築かれた湯槽は現在残されているが、その構造は方形造りで、縦横二・八メートル外周は方四・八メートル。巨大な切石で造られている。 なお、浴場には扁額が掛けられ、弘安の役における河野通有奮戦の図が描かれていた。 額の長さは四メートル程あったが、のち端の部分が七六センチ程切り取られたため残存部は三・二四メートルだけとなった。浴場については、『鶴見七湯記』に、惣村中に温泉七湯の里、謂ふ、照湯の湯、宮路の湯、伊麻井の湯・…-(中略)……明礬山のゆ、登海の尾の湯は西のあれ山の麓に、壷の湯、谷の湯は村の北のかた谷の小川に添て出……(下略)・…:」。とあり、明治初年の『豊後国速見郡村誌』鶴見村の条には、 照湯、湯質硫気を混ス。疝癩ニ宜シ。浴場壱ケ所。土人浴スルノミ。 と記されている。村人だけが利用したと言うのだから、浴場はあったが温泉場は既にすたれていたのである。 ところが、明治も末期になると、村民の間に温泉場復興の気運がおこり、西隅春木川と道の間に大きな浴場を創設した。建物は、平家造りで東面して建てられていた。しかし、度重なる春木川の水害にあい、維持することが困難になり廃止されたという(「テルユ地獄」絵葉書)。 一方御前湯は、明治・大正・昭和と藁葺きながらも長く続いた。昭和四〇年代になってブロック造り、スレート葺きに改築して今日に至っている。 なお、この浴場は昭和四十二年(一九六七)四月十一日、別府市指定の史跡となった。

場 所