一名鳶の湯。明礬温泉場の南方山寄り、宗教法人明礬薬師寺境内にある。この浴場については、つぎのような伝説がある。
「ある日、足を痛めた一羽の鳶(とび)が泥の中に足を入れて浸していたが、二日程たつと足の痛みがなくなり元気になって飛び去るのを村人がみつけ、「ここを掘れば薬効のある温泉が出るかもしれない」と言って掘ってみたところが、そこから温泉がこんこんと湧き出した。この温泉は明礬にある他の温泉は違って、この地では珍らしい炭酸泉だったので鳶にちなんで鳶の湯と名づけた。というものである。いずれにせよ、古くから湧出していた温泉で、『鶴見七湯記』には「登備ノ尾ノ湯」とあり、明治四十二年(一九〇九)佐藤蔵太郎の『別府温泉誌』には、
「登備尾湯、明礬山に在、明礬湯と同質也、湯井のあたりの石ノ間には、みな硫黄凝付たり、礬湯よりも酸きかた強くして口中などには入れ難たし」とある。
明治四十三年(一九一〇)田島大機の『南豊温泉記』によると温泉浴場の再開発者は、明治四十二年(一九〇九)二月、入湯旅館泉屋を経営していた遠藤駒太郎であると言う。
当時併設された遊園地には奇石怪岩をおき、中央の泉地には高さ二十余尺の噴水が設けられ、風景は絶佳であった。
泉質は炭酸性、無色透明(明礬にある他の温泉は白濁している)で、清涼な味で内用に適し、慢性胃腸病・秘尿生殖器病・神経痛・慢性炎症などに特効があった。
ところが、昭和五十一年(一九七六)秋の台風で裏山が崩れ、浴場は埋没してしまった。これを見た明礬薬師寺の上尾恵真住職は、昭和五十五年(一九八○)泉源地を買収し復活させたものである。
復興は、信者の労力奉仕で土砂を取り除き、五十五年(一九八○)十二月泉源修復と浴場の建設に着手。五十六年(一九八一)二月末、鉄筋コンクリート平家建て二七平方メートルの浴場が完成した。
泉源は浴場の西側で泉温は五〇度。工費は四二〇万円であった。
なお、本堂と浴場の間にある泉水は、約半分が埋められ、昔の面影が僅かに残っている程度である。
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場 所