蕩邪泉と呼ぶ。亀川中央町(元亀川村-亀川町)の旧国道(小倉街道)の西側山すその低地にあった温泉浴場。
「とうやせん」の字については、蕩邪泉(加来飛霞『高千穂採草記』)・湯邪泉(速見郡村誌).盪邪泉(田島大機『南豊温泉記』)などと記され、定まった字が使われていない。
ここでは、加来飛霞の記した「高千穂採草記」の蕩邪泉の字を使用する。
この浴場の創立は古く、江戸時代末天保十二年(一八四一)春、亀川村庄屋高橋万之丞が同村にあった年神社の境内に創設したのが始まりであるといわれている。
その後、弘化二年(一八四五)に植物学者加来飛霞が書いた高千穂採草記には、(省略)、帆足先生ニ謁シ、別ヲ告テ、目刈山荘四方ノ諸生来リ、学者数十人、余ノ相識ル者亦少カラス、先生弟子数輩を携へ野ニ出デ、薇ヲ采リ、古市ノ上ニ至ル、-::(中略)…、此郷温泉多シ、先生名ラレテ蕩邪泉ト云、近年新ニ屋ヲ構シ、又客舎ヲ設ケ、
遠近来浴者日ニ数十人余……(後略) と記されている(佐藤曉氏による)。
この記録によって、浴場の命名者が帆足万里であることや、弘化のころ、すでに蕩邪泉が温泉浴場として賑わっていたことがよくわかる。
ついで、万延元年(一八六〇)「亀川村旅人滞在帳(亀川「高橋文書」)をみると人請証文之事、一、旅人滞在之義、此度御取糾相成侯処往来手形取持之上国所○ニ承知罷在、人柄実体成者兼而智音ニ付、私引請御当所逗留之儀、達而御願申上○事、一、御法渡筋者不及申御村方障ニ相成○義一切不仕諸事為相慎可申事、一、御村並門役相勤可申事、一、萬一心得違之儀御座候節者、私引請御改筋江御介相掛申間敷侯、猶心得違之儀無之様、精々申聞置、宿主一同急度心可申事、一、御当所出立之節者、前以急度御届可申上事、之通相心得旅人滞在御願申上侯処、如件(中略)
速見郡北石垣村 〇一蕩邪泉宿屋 喜市 女房 元治元子年九月 慶応元丑年八月石垣へ引取 請人 古市村 藤左衛門 当村 茂右衛門 五左右ヱ門組
……(中略)-: 森城下森町 平田屋 〇一蕩邪泉宿屋 太助 当丙五十壱歳 女房 文久元丙年八月 当丙三十九歳 元治元子年九月引取 女子 江
請人古市村 小右衛門(在印) 同 亀川村 茂右衛門(在印) 五郎右エ門組 ……(下略)-:と記されている。
この記録で蕩邪泉に宿屋があったことがわかるだけでなく、入湯に来る客が、日出家中・岡山領備前・森領頭成・杵築領両子・府内領下上市町・筑前遠賀郡古屋野瀬村・速見郡北石垣村・延岡領大分郡・大阪船津橋・飫肥領日向国北川・嶋原領宇佐郡龍王村・延岡領日向国入塩村・杵築城下西新町・森城下森町・杵築領国東郡小原村・長州赤間関南部上町・坊州大嶋郡湯田村・神領宇佐上町・伊予宇和島領保田郷などにわたっていることから、亀川温泉場の声価が西日本全域に及んでいたことわかる。
明治になってからの蕩邪泉については『速見郡村誌』に、「温泉、湯邪泉、原質詳ナラス、能ク発表シ淋病ニ宜シ、諸瘡ノ膿潰スル者ニ宜シカラス、浴場壱ケ所、浴客一歳大凡三百人」と記された。
その後の蕩邪泉については、しばらく記録を欠くが、明治四十三年(一九一〇)田島大機の『南豊温泉記』には、「蕩邪泉」、是れ、亀川の西、丘阜の下にある一
湯にして、日出の名儒、米良東○翁の命名なり、其の質、塩類酸性に属し、疝癬、其他諸病に適す。
と、浴場の命名者を来良東○としているか、これは誤りで、さきにのべたごとく帆足万里を命名者とするのが温当であろう。
大正期になってからは、しだいにさびれ今日では、その趾と泉源地止を残すのみである。泉源地(旧小倉街道西側の山脚)には、今なお薬師像と石殿、破損した五輪塔などが残されている。
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場 所