参考文献
大分県史料・豊国紀行・速見郡史・別府市誌・家宝珍事記・天領横灘史料集・家宝珍事記・特に、石小百年誌 藤内 喜六
鶴見山麓から流れでる境川から春木川にかけての扇状地に位置する石垣地区には、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡が多く分布している。
縄文時代の遺跡として現在まで発見されているものに、春木・末行・四郎丸の三遺跡がある。春木遺跡は、九州横断道路建設の際発見され、西平式土器が出土した。末行遺跡(吉弘)でも同様の土器片が採集され、四郎丸遺跡(南石垣)では御領式土器と土偶片が発見されており、各遺跡とも縄文後期のものである。
当時これらの遺跡を中心に狩猟、漁猟による採集生活をしていたのであろうと考えられる。
弥生時代(紀元前三世紀〜紀元三世紀)の遺跡は非常に多く、別府市内の弥生遺跡の大部分は石垣地区に集中している。おもな遺跡をあげると、平田・四郎丸・矢上・末行・実相寺春木・円通寺・中須賀・上人・などがあり、土器・石器が出土している。実相寺春木遺跡は昭和三十一年に別府市文化財保護委員会が発掘調査した際、竪穴住居趾と平地住居趾が発見され、その実測図をもとに原寸大の住居を実相寺古代公園に復原保存している。この復
原家屋は、佐伯市白湯遺跡の復原家屋と共に県内にニヵ所しかない貴重なものである。また当時の墓地跡として、上人小学校前の旧国道・別府大学校庭・春木遺跡・末行遺跡・糸永遺跡から小児かめ棺が出土した。`
また末行遺跡の一部は当時の祭祀遺跡であり、祭祀用の土器が出土している。同遺跡の土器包含層の上部からは古墳時代の須恵器の破片が多数出土している。
古墳時代の遺跡として別府市に五つの高塚式古墳があるが、全部が石坦坦区内にある。これらの古墳は当時の豪族の墳墓であるので豪族達の一族がこの地区内に居住していたのであろう。
それらの古墳のうちで最も古くから有名なのが鬼の岩屋古墳である。江戸時代享和年間に著わされた帆足万里の肆業余稿に「・・・速見郡石垣村有俗号鬼窟・・・」と記されており、現在別府市で唯一の国指定史跡となっている。この鬼の岩屋古墳は、一号墳(上人小学校内)と二号墳の二つの円墳があり、一号墳は、玄室・前座・羨道のある複室式石室の古墳である。二号墳は、玄室・羨道のみの単座形式であり、普通は玄室内に者棺を安置するのであるが、この二号墳は石棺がなく遺体を安置するために玄室の最深部に石台と考えられる扁平なる巨石を置いてあり学問上非常に珍しく貴重な古墳である。先年上人小学校の校庭拡張の際、この時代の土器である須恵器が多数発具されている。
この外の古墳として、実相寺古代公園内に「百合若伝説」をともなう太郎・次郎塚の古墳がある。どちらが太郎塚であり次郎塚であるのか不明であるため、現在は北に位置する古墳を一号墳、南の古墳を二号墳と呼ぶ。先年一号墳の東端より唐草紋遺影鏡板が出土した。この鏡板(馬具の一部に使用する)は精巧なつくりであり、同時代の遺物として考古学上貴重品であるため、県指定文化財となっている。(以上の出土品は中央公民館郷土資料室に展示している)
この太郎・次郎塚の東南約百米の所に鷹塚と呼ばれる古墳があり、百合若伝説に出てくる「緑丸」に比定されているものであり佐藤鶴谷の豊後史蹟考に「俗称別府太郎・同次郎塚、二つの塚あるも実は三所あり、其一を鷹(緑丸)の塔という。・……鷹の塔と称するは他の二基に比して構造梢太なり。蓋し次郎太郎の如き、また緑丸と名づくる鷹の如き、是れ百合若大臣……」と記されている。
この付近には前記の古墳の外に古墳があったらしく古代公園内に舟形石棺の一部が残存している。
以上記した縄文・弥生・古墳の各時代の遺跡の分布は、旧国道に沿う扇状地の湧水地帯に多くみられ、紀元前数千年より居住した人々は「水」を生活の中心にしていたことがわかる。また弥生時代にはじまる農耕生活により石垣地区内の耕地化か行われはじめたと考えられる。大和朝廷成立後はその支配下にはいった豪族たちによって更に開墾されていったであろう。
各時代の遺跡が石垣地区に集中しているということは、この地域が当時の生活圏・文化圏の中心であったといえよう。
奈良時代・平安時代の石垣の歴史については、記録された古文書がないので全く不明であるが、前記のごとく大和朝廷の支配下にはいったのちも、居住の地方豪族(朝廷の役人となった)の指導で漸次耕地化かすすんでいったのであろうと思われる。
平安時代になると全国的に貴族・社寺による墾田の私有化かさかんにおこなわれ、荘園という私有地が増加した。この時期にはじめて「石垣」という地名が文書にあらわれる。最初に石垣の地名があらわれるのが、「宇佐大鏡」で、その中に「豊後石垣荘田数百五十町・用作六町四反」の記事がでてくる。「石垣荘」の荘がついているのであきらかに平安時代末には石垣も荘園化されていたのである。この石垣荘は宇佐神宮領で、鎌倉時代の弘安八年(一二八五)の豊後国図田帳によると、
速見郡 千町余五町
石垣荘 二百町
本荘百四十町 宇佐領々主神官名主等
別府六十町 地頭職名越備前左近大夫殿
の記録があるが、どのような経過で宇佐神宮領となったのか不明である。右の記録にみえるように、別府は石垣本荘のなかに含まれており、石垣本荘の付属的なものとして追加開墾された新開地であろう。この新開地が時代の下がるにつれて発展し、その本荘である石垣を現在は逆に包含してしまった。
「石垣」の地名については、江戸時代元禄七年二六九四)の貝原益軒の豊国紀行に「北石垣・中石垣・南石垣とて実椚寺村の南に三村あり、道の束の方にあり、此所を石垣と称せしはもとより石の多き所なれば、おのづから石垣となりし故なり」とある。石垣地区が扇状地で石が多かったのでこういう地名が生まれたのであろう。
源頼朝が一一九二年に鎌倉幕府を開くと、豊後国の守護職として大友能直を任命した。伝説によると、大友氏が豊後入国の際、鎌倉鶴岡ハ幡宮より分神した朝見ハ幡神を奉じ上陸した析、南石垣森田の土民が餅をついて迎えた地を餅ケ浜という。また北石垣八幡宮は津久五年二I九四)大友能直が勧請したとされているが、石垣は前述のように、以前より宇佐神宮領であったため、津久五年以前に祭祀されていたのではなかろうかと思われる。
この時期の石垣荘というのは豊後国志によると、江戸時代の「別府・竹之脇・小野・小平・南石垣・中石垣・北石垣・南鉄輪・北鉄輪・平田・野田・以上十一村・旧属石垣荘・荘在郡東・接竃門」とあるので現在の石垣地区の範囲より広い地域を指していたようである。この石垣荘の支配は前項に記したように、本荘は宇佐神宮領であるが、別府六十町は、筑前国郡正敏氏文書によれば、豊後国石垣辨分(いしかきべふ)は大友能直の所領となっているので、豊後国図田帳にある名越備前左近大夫(源氏にかわって鎌倉幕府の実権をにぎった北条氏の一族)の別府支配はそれ以後である。鎌倉時代の石垣荘支配についての記録は非常に少なく、同時代末期正和二年(一三一三)の永弘文書のなかに、支配権争いの文書がある。これによると、石垣荘内の末吉・末国を藤原重連と藤原氏女が争っている。末吉・末国の位置は不明であるが、末吉は現吉弘町の末行であろうと思われる。
この時期心地名伝説としては、前記の餅ケ浜以外に、時宗の開基一遍上人が上陸したといわれる上人が浜(上人が鼻)がある。
室町時代の石垣については、弘治三年(一五五七)の吉富文書に大友義鎮が府内の円寿寺(大分市上野六坊にあり、大友氏の菩堤を弔うために建立された寺)に対し、石垣荘内の禅帰庵と円通寺の寺領の安堵と諸役を免除すること記されているので、この時期より安土桃山時代の大友氏滅亡まで、石垣は大友氏の支配下にあったようである。
安土桃山時代の末期、豊臣秀吉が戦国の世を統一し、朝鮮出兵をした。この時、大友氏二十三代の守護大名であり大友宗麟の嗣子である大友義統も黒田長政と共に、第三軍の将として六千余人を率いて出陣した。ところが武士にあるまじきふるまいがあったとして、秀吉の怒りにふれ、文禄二年(一五九三)五月に領地であった豊後国を没収され、義統は毛利輝元に預けられ周防の山口に整居することになった。これにより、鎌倉時代より約四百年豊後を支配し、また石垣の領主であった大友氏は遂に滅亡した。同年秀吉は、因幡鳥取城主であった宮部法印に命じて豊後国の検地をおこなった。この時の石垣の石高は明らかでないが、次のように推定されている
干天百九拾石弐斗一升 石垣南村
九百三拾五石七斗八升 石垣北村
この検地以後の豊後は、いくつかの公領・私領に分割された。そして石垣を含む別府地方は公領となったもようである。
慶長三年(一五九八)秀吉が歿すると、豊臣・徳川の二大勢力の対立となった。豊臣方の石田三成は西国大名に檄をとばした。更に三成は、周防に整居していた大友義統を大阪に呼び寄せ、豊臣秀頼の命令と称して豊後の旧領国を与えるので至急帰国して旧家臣を集め、徳川方の中津城主の黒田卯木を討つよう指示した。
そして馬百疋、甲冑百領、長槍百本、銃三百挺・銀子三千枚を与えた。義統は慶長五年九月八日、周防に豊臣方である国東安岐城主城代熊谷外記を呼び作戦を相談したのち臼杵城主太田一吉にも連絡をとった。
一方大友氏の旧臣吉弘統幸は筑前国柳川から馳せ参し、義統に豊臣方の不利を説き徳川方につくよう再三諌言したが、義統は石田三成の甘百を信じこみ統幸の諌言を退けた。統幸は勝利の可能性は全くないというものの旧主に従うことを武士道と考え義統に従うことにした。同月九日義統は安岐経由で浜脇に着き立石陣屋にはいった。つづいて旧臣であった田原紹忍・宗像掃部などが来援した。また付近の庄屋百姓などは旧主義統のために兵糧を献じた。そして翌十日、有名は「石垣原の戦い」がはじまったのである。この戦いのようすについて貝原益軒は豊国紀行の中に次のように記している。
「大友義統は……九月十日別府の南の隣村、浜脇の浦に着船して立石に宿陣す。黒田卯木は豊後の敵をうたんが為に、・九月九日中津川の城を出。まず国崎郡富来の城(垣見和泉守城なり)安岐城 (熊谷内蔵允の城なり)を巡見し、大友既に北国に下り、細川忠興の家臣松井・有吉等が龍りし木付の城に兵を遣し、攻める由聞給ひて、家臣井上・久野・野村等を後攻の為に遣わさる。大友の兵は如水の出給ふを聞て、木付の城をば巻ほぐして立石の本陣へ退く。是によって如水より遣わされし木付の後攻の兵は戦ふべき敵なくして、松井・有吉と共に先陣として、大友と戦はんため実相寺山の西、加朱殿に打上りてしばらく陣を取り、立石の方にうち向ふ。・……大友方の兵も立石を出て、鶴見原(石垣原)にて出合合戦す。黒田方の一陣は母里与三兵衛、時枝平太夫なりしが、大友の侍大将吉弘加兵衛が熱に押立られ、実相寺山と加朱殿山との間、大の馬場まで引退く。黒田方の二障久野次左衛門は若武者なれば、一陣の敗軍を本意なくおもひ、鶴見原の半を過立石に近き所まですすみて、宗像掃部と戦ひ討死す。曽我部五右衛門も久野が討れしを見て同じく戦死す。二障井上九郎右衛門、野村市右衛門は、加朱殿山の上、北の方低き所に陣を取て有しが、井上一人南の高き所より、鶴見原の軍のやうすを見て、時分よし老思ひ士卒をよびて、野村と同じく山を下りて敵陣にむかひ戦ふ。鶴見原の半より南立石の方によりて、忠内がほりとて自然のから堀、横三間、長百聞ばかりなるあり。是立石村と鶴見村との境なり。
此処の両岸高さ一間半ばかり有。其両岸に井上・吉弘立向ひて互に詞をかはしてのち戦ひ、吉弘終に討たれぬ。久野次左衛門が討死の所より四町ばかり北の方にて、敵陣へもやうやく遠し。されど石垣原の半よりは立石村の方に近し。吉弘討たれしかば敵皆敗北す。如水は其晩(十三日)実相寺山に朱リて陣を取給ふ。翌十四日大友方に降参をすすめ玉う。大友同心し、十五日の早天に如水の家臣母里太兵衛が陣に降らる。如水これを中津へつかはし、其後如水上洛の時つれゆき給ひしが家族の鈎命にて義統を常陸国へ流し給ふ:・……」。
この石垣原の戦いの二日後、天下分目の戦いである関ケ原の戦いが行われ徳川方の大勝となったのである。
石垣原の戦いで戦死した吉弘統幸を悼んで、当時の宝泉寺の憎が村民と共に遺骸を手厚く葬り祠を建立し松を植えた。これが下馬の松である。更に大正十年石垣村有志によって墓所に公園を設け、神社を建立して吉弘統幸を祀った。これが現在の吉弘神社であり、吉弘公園である。戦前は桜の名所として賑わっていたが、現在は区画整理の結果、全く昔の面影を失った。
徳川家康による江戸幕府成立以後の石垣地区は、天領(幕府の直轄領)となり、慶長六年以後江戸末期まで細川越中守にはじまる三十余人の預主や代官によって順次支配された。江戸初期の政治は大友宗麟死後次第に減少していた切支丹(キリスト教信者)の弾圧を厳しくした為、村民の中の信者は隠れ切支丹となった。
それらの切支丹墓が、中須賀寺ノ前に三基、同向ノ原、吉弘矢上に各一基、南石垣糸永、同谷ノ湯に各三基、同畑、同芹原、同大木に各一基、同局二基(うち一基は別府市指定文化財)と切支丹地蔵一基が残存している。その後、幕政が安定した元禄十四年(一七〇コになると石垣の耕地も広がり石高も
八百三拾壱石弐斗壱升四合 御料北石村
弐百八拾五石火斗壱升ハ合 御料中石垣
六百五拾五石火斗七升三合 御料南石垣
となり、この石高は、明治五年(一八七二)の田畑名寄帳の石高と殆んど差がないので地区の大部分が耕地化されていたのであろう。
同史料によると農家の戸数は、南石垣村七九戸・中石垣六九戸 (北石村は不明)となっているが、江戸期もほぼ同じ戸数とみてよかろう。米は真米と赤米の二種類を栽培しており、同名寄帳に南石垣真米高四捨五石五斗壱升五合・赤米高弐百三捨石九斗八升七合・中石垣村・真米高五拾四有壱斗三升三合、赤末高百六捨ハ石四升五分と記され赤末の栽培が多い。赤米は穂も粒も赤く飯に炊いても粘りがなく味もわるく、やせ地に適した品種であるので
石垣の耕地はやせ地が多かったのであろう。畑作には、麦・栗・大豆・芋や七嶋蘭などがある。享保二十年(一七三五)の庄屋記録に「畑作壱反に付大麦種子壱斗五升、こやしは馬屋ごえ三駄より四駄まで」「さつま芋種苗床には下ごえ馬屋ごえを教権申候、五月中に段権申候」などとあり、毎年の作付面積、板付方法、収穫時期を詳しく報告している。また南石垣村及び中石垣村の七嶋干場は北石垣村の「かわら田浜」を明和七年(一七七〇)より十年間借受け、使用料として四捨銭弐百目を支払っている。その他空地や家のまわりには、松・`杉・檜・桑・椿を植えるように、また農民の生活については質素倹約を旨とし、夜なべ仕事の励行、年貢の完納、また年貢米の江戸・大阪への廻送の際の人夫としての各村からの農民の選びかたなどについて高松御役所より各村庄屋へ厳しい触書が再三されている。
江戸中期以後は、災害が続発し村民の苦労がうかがわれる。享保十四年(一七二九)九月十三日の境川の大洪水にはじまり、同十九年には、
石垣三ケ村九月二日夜の大風雨にて諸作とも殊の外根毛仕候
……粟作小出来の分は悉く吹祈あえ申候故皆無同前に罷り成
候、殊に当五月に打続く長雨にて大豆作不出来……取実半作
も御座なく皆無同前……」
となり、元文二年(一七三七)九月朔日より二日までの大風雨、高汐、大浪で石垣海岸の汐除自普請所弐百三捨間のうち四ヵ所が破壊され、寛政十一年十一月廿四日の大地震、翌十二年六月六日の大洪水で吉弘矢上谷、南石垣薬師丸、同森田は水浸しとなり、山汐は南石垣中石垣を襲っている。嘉永三年(一八五〇)八月七日の大風により収穫皆無となり米穀高値となる。またこの大風により、北石垣ハ幡宮の大杉五捨本が倒れ本社及び廻廊大破、また
北石垣村・中石垣村のうちおよそ百四捨軒が破損・崩家となる。
嘉永五年八月廿二日の大洪水で北石垣村田地大抄、境川は水が南に切れ大道を損し、嘉永七年十一月四日五日大地震、安政二年(一八五五)七月廿八日大風雨となり、境川水溢れ宝泉寺裏まで出水、田畑大損となり南石垣村田畑の流地凡百代捨石程、中石垣村弐捨石程の被害となる。
これらの災害のたび、北石村、中石垣村、南石垣村の各庄屋は高松御役所に年貢米の減免願を提出しているが、村内では飢人が続出している。享保十八年(一七三三)の中石垣村の飢人数は、惣人別四百九人の中、四百九人が飢人数として報告され借銀している。また飢饉にともない病人も多く、翌十九年の北石垣村・中石垣村の兼帯庄屋庄左衛門の報告をみると、両村惣人数のうち、頬人三捨ハ人のうち弐捨人柄死(男捨五人・女五人)となっている。特に天保年間以降になると貪しさのために、田畑を売渡す者が増加し、売渡証文類が多く残存している。このような苦しい生活の中にあって、文化五年(一ハ○ハ)三月中石垣村の伝蔵・和田吉・徳太郎の三名が親孝行ものとして高松御役所より褒美をもらっている。
以上のようなきびしい自然災害からのがれるために、石垣三ケ村内の各部落に江戸後期の年号銘のある素朴な地蔵仏や石の祠が多くつくられた。これらは江戸期の文化遺産として今後も大切に保存すべきであろう。
江戸末期になると、石垣で唯一の私塾が矢田孝一によって中石垣村に「対岳楼」名で、文久三年(一八六三)から明治十年二八七四)まで開塾し、多くの門弟を育成した。孝一は、日田成立園に学んだ人で当時の石垣を代表する学者であり文化人であったといえる。
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