(図面出典は下記A)
沿革
中山別荘は、別府市大字別府山の手町9にあった木造建造物。
大正9年(1920)落成。元貴族院議員、富士紡績、創設者和田豊治(下画像)(下記注1)の創建。
(和田豊治氏画像:wikiより)
建物はアメリカンコテージ式(とんがり屋根にバンガロースタイル)、13200uの広大な敷地内には池もあり、建坪はのべ180坪(594u)、庭にはツツジが植え込まれていた。
(山本拙郎、お茶の水女子大デジタルアーカイブズより)
設計は、和田氏の依頼により、東京
亜米利加屋の設計主任(建築士)山本拙郎(やまもと・せつろう)(日本最初の住宅作家
、注2)、工事監督は亜米利加屋(広報的には「あめりか屋」とひらがなで記した)での山本の後輩「遠藤健三」(元大日本土木会長)、棟梁は渡邉源四郎であった。
東京から6,7人の大工と2名のとび職人が来て仮宿を建て、現地の職人さん達に指示を出しつつ、約1年がかりで作業を行った。
遠藤健三氏「冊子『温故知新(ロータリーの今昔)』」より
工事中、遠藤健三は、九水の取締役であり、かつ和田氏の代理であった梅谷氏と絶えず連携をとり、万事遺漏なきを期した。
特に、アメリカンコテージ式であったため、建材の調達に苦心し、赤瓦・楢(なら)・しおじなどは東京から汽車で輸送し、杉・檜(ひのき)などは大分県下で調達したという。
なお、大正12年(1923)5月には、久邇宮(くにのみや
、下記注4)良子(ながこ)女王殿下(=香淳皇后(こうじゅんこうごう、下記注5)が来別の際、この中山別荘(和田別荘)に御宿泊、別府温泉や地獄地帯を見学したという。
香淳皇后(こうじゅんこうごう、昭和天皇の皇后。名は良子(ながこ)
その後、この別荘を譲り受けたのが、中山製鋼所を興した中山悦治氏。譲り受けるにあたり、中山氏は、平田雅哉(京都)に補修改修の設計・施工を、また庭園改造は造園家の椎原兵氏に依頼して所有するところとなった、以降、中山別荘と称したが、戦後別府に米軍が駐留することになり、その司令官が昭和33年(1958年)3月25日までに宿舎に宛てたため、大分県地方軍政の拠点となり、市民はなかなかこの別荘に近づけなかった。
屋敷周り(外構)も含めて、屋敷は、現代では珍しく、我が国の初期木造洋館の遺構の1つと、建築業界では位置づけられ、昭和57年に、屋根瓦の葺き替え、および壁面の復元補修が行われた。同類の建造物は東京や軽井沢などにも、当時いくつか建てられたが関東大震災と戦中の空襲で破壊され、この中山別荘は、最後まで残された木造洋館として日本建築史上においても貴重な位置にあった。
第2次世界大戦の敗戦後、別府に進駐軍がきて、中山別荘は接収。
(ウィリアム・ウェストモーランド 画像はwikiより)
最高司令官(米187空挺部隊のウィリアム・ウェストモーランド中佐(下記注6)の官舎となった。
ウェストモアランド中佐はこの中山別荘に昭和26年(1951)6月15日〜昭和30年(1955)7月5日もの長期間居住した。
ウェストモアランド中佐は後に50歳で米国史上最年少の将軍となった。彼は昭和45年9月に別府を訪れた際には
まっ先に中山別荘を訪問している。
(注1) 和田 豊治(わだ とよじ)
1861年12月19日(文久元年11月18日) -
1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。
従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。
(注2) 山本拙郎(やまもと せつろう)
1890年2月22日、高知県香美郡岩村(現・南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。大正3年(1914年)卒業後、早稲田大学理工学部建築学科入学。同校卒業後の大正6年(1917年)橋口信助が創立した住宅供給会社「あめりか屋」へ就職。設計部の技師長に。技術と啓蒙面を担当し住宅建築の世界を展開。雑誌で住宅設計競技を企画し、応募してきた当時中学生の吉村順三に賞をあたえたことがある。また、客人を迎えるため玄関のドアは内開き、と啓蒙していた。
1922年、従弟の早大教授山本忠興の邸宅「電気の家」を設計。その他、あめりか屋の作品は別府中山別荘、軽井沢プリンスホテルの晴山ホテル(旧根津嘉一郎別邸)
などと、師の今和次郎と、旧渡辺甚吉邸(旧スリランカ大使館邸)など。
1940年から1941年にかけては、通称五条ヶ辻と呼ばれた振興住宅組合(上海恒産株式会社)・上海新市街(上海特別市中心区)に明和街の甲号住宅、平昌街の乙号住宅、さらに丙号住宅、慶林街の丁号住宅という全部で4つのタイプの日本人住宅を設計。
拙郎はキリスト教の環境に育った影響から、明治式の立身出世的人生観から切れていたとみられ、性格もやさしく温厚であったことが知られている。あめりか屋の啓蒙面として健筆をふるった『住宅』誌上の文章も、大変ロマンティックなものであった。
また池田武邦だけでなく、村野藤吾・吉村順三ら後の時代の建築家たちが直接・間接に山本の存在に触れる機会があり、吉村はちいさいころに母が愛読していた婦人雑誌で拙郎が企画していた住宅の設計競技に応募し入選を果たした経験から「私が最初に好きになった建築家」と語っている。その作品も温厚、素直な作風として知られる。
(注3) あめりか(亜米利加)屋
1909年(明治42年)に橋口信助が創立したハウスメーカー。橋口は若い頃に一旗あげようとアメリカへ密航してさまざまな職業を転々としてから日本へ帰国。
その時、アメリカから組立式のバンガロー住宅、現在で言うプレハブ住宅のアイデアを持ち帰り、それを東京・乃木坂に建てることで住宅供給業の第一歩を踏み出した。滋賀重列を顧問に据え、アメリカ風の中小住宅であることをセールスポイントにしていた。住宅改造博覧会にも参加し、会社は東京市芝区琴平町、現在の虎の門付近にあった。
代表作に文化のみち二葉館や現在の軽井沢プリンスホテル敷地にあった根津嘉一郎別荘など。
(注4)久邇宮(くにのみや)
久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。
初代朝彦親王は、文政7年(1824年)に誕生。初名は成憲。奈良一乗院の門主となり、親王宣下の後、出家して京都青蓮院門跡となり、天台座主を兼ね尊融入道親王と称した。文久3年(1863年)、還俗して中川宮の宮号を賜り、名を朝彦と改める。元治元年(1864年)、宮号を賀陽宮と改める。国事御用掛として孝明天皇を補佐し、天皇が嫌悪した尊王攘夷派を朝廷から追放することに努めた。そのため、明治維新後は、反政府陰謀の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されて安芸広島藩に預けられた。明治3年(1870年)に伏見宮に復帰。
1875年(明治8年)に久邇宮の宮号を賜った。宮号の由来は、恭仁京にちなんだといわれている(伏見宮の当主が1代おきに「邦」の1字を偏諱としていたことによるという説もある)。その後、朝彦親王は神宮祭主として古儀復興に取り組み、1891年(明治24年)に68歳で薨去。
朝彦親王には王子女が多く、賀陽宮邦憲王、邦彦王、梨本宮守正王、多嘉王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王などがいる。
(注5)良子(ながこ) 1903年(明治36年)3月6日
- 2000年(平成12年)6月16日)
昭和天皇の皇后。久邇宮邦彦の第1女。1924年結婚し皇太子妃宣下。1926年立皇后。1989年昭和天皇死去により皇太后。
香淳皇后(こうじゅんこうごう)ともいい、。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。
歴代皇后の中で最長寿である。(97歳没)
(注6)ウィリアム・ウェストモーランド (William C. Westmoreland)
サウスカロライナ州スパータンバーグ郡生まれ。1932年ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学して優秀な成績をおさめ、1936年に卒業後は第二次世界大戦や朝鮮戦争で活躍した。
1964年にベトナム派遣軍司令官となる。1968年のテト攻勢では敵の攻撃を退けたが、国際的な批判が高まったためにアメリカ軍の更なる戦力増強は制限された。同年、ウェストモーランドは陸軍参謀総長に就任、1972年に退役するまでその地位にあった。
1974年サウスカロライナ州知事選に立候補したが落選する。1983年1月にはCBSの報道番組において、戦争中の敵兵力、特に解放戦線の非正規民兵の推定数を大幅に過小評価していた、として元CIA職員や部下の武官らの証言により批判された。これに対しCBSを名誉毀損で訴え、1984年10月から1985年2月まで法廷で争われたが、のちに和解した。2005年7月18日サウスカロライナ州チャールストンで死去。91歳だった。
(以上注記は、wikiより)