開創当時
開創については、『豊後国史』(享和3年
唐橋世済編)に
長松寺、朝見郷田野口村にあり、泉福三世玉田妙高和尚請い、創与。(原漢文)
とある。つまり、開祖は泉福寺三世玉田妙高和尚であると言う。しかし、程なく廃絶。茅堂のみ
が残り、無量寿佛(阿弥陀如来像一躰とも言う)を安置してあった。
天正19年(1591年)
その後、天正19年(1591年)国東郡横与村永照寺住職深屋禅師の徒、夙外(しゅくがい)
和尚(速見郡史には「夙外」とある)が入山し、再興を企てたが果たさず、放置されたままに
なっていた。
理由については不明だが、室町時代末期は、荒廃が長く続いていたためとも言われる。
慶長9年(1604年)
慶長9年(1604年)3月になると、朝見村・田野口村・浜脇村・別府村など四ヶ村の村老たち
は再び再興の気運を盛り上げた。当時の記録とされる仙玉書「椈源録」(福田紫城述「朝見
文化史料」)に、ここでは略すが、再興願書連署者34人の名がみえる。
しかし、その当時も再興はできなかったという。ところが、大野満太郎文書「大野系図」には
慶長九年、田野口村長松寺建立、田島為菩提寺、
惟久・惟那兄弟三人成長松寺檀那者也
とあるから建物等はでき、一時的ではあったが、寺としての運営が行われていたのかもし
れない。なおここで言う維時は大野彦左ヱ門惟興のことである。
元和2年(1616年)
元和2年(1616年)速見郡川南村興禅院住転茂伝和尚の徒、泰伝は当寺を再興し、万年
山長松寺と改めた(『豊後国速見郡村誌』)。この間の事情について『大分県社寺名勝図録』
には
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