区分 |
西暦 |
元号 |
月 |
日 |
内 容 |
出 典 |
奈良
時代
710〜
794
(784ま
でとす
る説
も) |
713 |
和銅6 |
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・速見郡に駅2ケ所、烽一ケ所あり
・この頃既に赤湯泉・玖倍理湯井などあり
・柚富郷に栲樹(タクノキ)多く産し木綿をつくる
※ 『豊後国風土記』(右写真)文献としての体裁を保つ数少ない風土記の1つであり、成立年代不詳。『出雲国風土記』とともに近世以降確認されていた。現存する写本は、巻首・各郡首はそろっているが、欠落箇所が多い。 |
豊後風土記 |
738 |
天平10 |
4 |
22 |
陽候史真○豊後守となる |
続紀巻 13 |
745 |
天平17 |
5 |
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豊前・豊後一円に地震あり、地震は常と異なり、 往々炸裂し水泉湧出する。 |
続紀巻 16 |
749 |
勝宝元 |
6 |
23 |
速見郡朝見郷内百町(竈門庄)を弥勒寺に寄進。 |
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761 |
宝字5 |
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吉備真備西海道の節度使となり、兵備を検定す |
続紀巻23 |
771 |
宝亀2 |
5 |
23 |
速見郡朝見郷に山崩れが起こり、43軒が埋没、死者47人。 |
続紀巻32 |
791 |
延暦10 |
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豊後の人々飢に苦しむ |
続紀巻40 |
800 |
延暦19 |
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この頃豊後一円の民衆困窮す |
日本後紀巻8 |
平安
時代
794〜
1192
(784
から
とす
る説、
1185
まで
とす
る説) |
806 |
大同1 |
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豊後の百姓水害疫病に苦しむ |
類従国史 巻83 |
826 |
天長3 |
3 |
15 |
竈門八幡宮に神宮寺が置かれる。 |
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830 |
天長7 |
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春、九州諸国に伝染病流行し、死者多数あり |
日本後紀 |
832 |
天長9 |
|
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悪病流行し、死者多数あり |
日本後紀 |
849 |
嘉祥2 |
6 |
1 |
火男火売二神に従五位下が授けられた |
続日本後紀 |
852 |
仁寿2 |
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豊後の貧民二万六千余人となる |
文徳実録 |
867 |
貞観9 |
1 |
20 |
鶴見岳噴火、鳴動が3日間続き、降灰が数里に積もる。 |
三代実録 |
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2 |
26 |
太宰府は鶴見岳噴火を朝廷に報告する |
三代実録 |
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4 |
3 |
朝廷は、豊後国司をして火男火売二神に大般若経を転読せしむ |
三代実録 |
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8 |
16 |
火男火売二神に正五位以下を授ける。 |
三代実録 |
927 |
延長5 |
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由布に駅馬五匹、速見郡に伝馬五匹でる |
延喜式 |
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火男火売神社が延喜式に記され後式内社とよばれるようになる。 |
延喜式 |
鎌倉
時代
1192〜1333
(1180
,1183,
1185
から
とす
る説
も) |
1196 |
建久7 |
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大友能直、豊後国の守護となる が、この時、能直は入国せず、先鋒古庄四郎重能浜脇に上陸す。 |
大友家文書禄外 |
1285 |
弘安8 |
10 |
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大友兵庫入道頼泰豊後国図田帳を鎌倉幕府に注進す |
豊後国図田帳(=豊後国大田文) |
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速見郡は、千町余五町あった |
豊後国図田帳 |
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石垣荘園は、本荘と別府にわかれていた |
豊後国図田帳 |
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朝見郷は、八十町で宇佐宮領であり地頭は土肥一王丸であった |
豊後国図田帳 |
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竈門荘は、八十町で宇佐弥勒寺領であった |
豊後国図田帳 |
1306 |
徳治 1 |
1 |
21 |
羽室御霊社に沙弥道善の供養塔がたてられた |
日名子太郎「金石年表」 |
1313 |
正和 二年 |
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石垣荘下地に関し、藤原重迫・藤原氏女と相争う |
永弘文書 |
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石垣荘弁分地頭代、当地頭は豊前三郎であった |
永弘文書 |
1322 |
元亨 2 |
12 |
15 |
鶴見山中に宝塔が建てられる、総高一米八八糎 |
宝塔銘 |
1341 |
興国2 |
|
|
大友氏時が昌華祐和尚を開山とし、御塔原(乙原)に吉祥寺を創建する。 |
豊後国志巻之三 |
室町
時代
1336
,1338〜1573
(1392
の
南北
朝合一
からと
する説
も) |
1344 |
興国3 |
2 |
5 |
別府竈門山に宝塔が建てられる |
宝塔銘 |
1346 |
正平1 |
|
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この頃竃門の地頭は竃門弥太郎左衛門尉貞郷であった |
永弘文書(大分県史料) |
1347 |
正平2 |
1 |
21 |
御塔原(乙原)山の吉祥寺に昌華祐和尚の開山塔がたてられる。 |
開山塔銘文 |
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このころ別府地方に禅宗がひろまる |
豊鐘禅鳴録 |
1352 |
正平7 |
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この頃里屋(亀川)は竃門荘に属す |
竹田津文書 |
1354 |
正平9 |
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|
この年、雄城若狭守崇福寺を再建するという、中興の祖といわる |
崇福寺位牌 |
1355 |
正平10 |
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大友氏の供養塔が乙原に建てられる |
草庵塔銘文 |
1364 |
正平19 |
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浅見郷宝漓寺の名が記さる |
氏時所領注文 |
1366 |
正平21 |
2 |
8 |
不肯和尚大禅師、枝郷棚林に草庵を開く |
位牌銘 |
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この頃乙原附近は、大友氏の所領であった |
銘吉祥寺記録 |
1383 |
弘和3 |
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この年竃門荘野田村は大友氏時の所領となっていた |
氏時所領注文 |
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この頃大友氏の勢力神領におよぶ |
氏時所領注文 |
1391 |
元中8 |
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乙原吉祥寺に梵鐘ができる |
鐘銘 |
1396 |
応永3 |
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|
「応永三年三月三十日」記銘板碑あり(直接別府に関係なしと
思わる) |
銘文 |
1410 |
応永17 |
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応永十七年記銘鰐□南端村にあり |
日名子太郎「金石年表」 |
1419 |
応永26 |
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応永二十六年の塔流川にあり |
森進一郎氏邸内塔銘 |
1429 |
永享1 |
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大友持直、平田に観音堂を建つ |
豊後国志巻の三 |
1430 |
永享1 |
|
|
鶴見、水車に石幢が建てられた |
石幢銘文 |
1433 |
永亨5 |
9 |
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山口の大内持世と大友持直の戦いで、吉祥寺が焼き払われる。 |
別府市誌・吉祥寺研究 |
1436 |
永亨8 |
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大友持直が無住になり荒廃した平田村の相宗寺を再建し、観音寺と命名する。 |
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1466 |
文正 1 |
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天聞路傍に石瞳が建てられる |
塔銘文 |
1472 |
文明4 |
3 |
15 |
立石天満宮宝殿か再営される |
古屋文書 |
1502 |
文亀 2 |
6 |
26 |
枝郷に愛宕神社かできる |
別府市誌(昭和八年版) |
1514 |
永正11 |
|
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鶴見水車に板碑が建てられる |
板碑銘文 |
1516 |
永正13 |
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東山後畑に宝飯印塔が建てられる |
塔銘文 |
1530 |
享禄3 |
|
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南蛮船九隻別府湾に入り府内に上陸、商法をいとなむ、鉄砲、石火矢伝来 |
両豊記 |
1541 |
天文10 |
7 |
27 |
ポルトガル船豊後に流れつく(明船か神宮寺浦に漂着ともいう) |
半田康夫「大分県郷土史年表」 |
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10 |
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ポルトガル貿易船織布と共に綿種子を舶来す、義鎮速見の地に栽培を許す |
「室町殿日記」 |
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ポルトガル船来泊(古市) |
大友宗麟外交年表 |
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宋粛帝の使豊後に来る総数は二八〇人であった |
日本海防史料叢書 |
1543 |
天文12 |
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ポルトガル人種子島に来り鉄砲を伝う |
大分県史要 |
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|
8 |
7 |
外国船五隻来府 |
日本海防史料叢書 |
1544 |
天文13 |
|
|
朽網親満の乱おこる |
別府温泉歴史略年表 |
1546 |
天文15 |
|
|
外国船来府(国籍不明) |
日本海防史料叢書 |
1550 |
天文19 |
2 |
10 |
二階崩れの変が起こり、浜脇で入湯していた大友義鎮(宗麟)が急遽府内に帰る。 |
大友史料 |
1551 |
天文20 |
7 |
|
ポルトガル船、速見郡日出沖にくる、サビエル山口から日出を経て府内に来り布教の許可を得る |
半田康夫「大分県郷土史年表」 |
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|
10 |
24 |
サビエル府内を去りインドにむかう |
半田康夫「大分県郷土史年表」 |
1557 |
弘治3 |
|
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大友義鎮府内円寿寺に対して石垣荘内の禅帰庵と円通寺の領掌を安堵し諸役を免除す |
渡辺澄夫「荘園時代の
別府」 |
安土
桃山
時代
1573〜1603
(1568
からと
する説、
1598,
1600ま
でとす
る説も) |
1575 |
天正3 |
|
|
ポルトガル船来り虎四匹、象一匹を伝える |
日本海防史料叢書 |
1581 |
天正9 |
|
|
アレッサンドロ・ワリニヤニ、府内より日出にむかう |
岡本良知による |
1586 |
天正14 |
12 |
12 |
戸次川の戦闘に大友氏敗れ義統は高崎城に入る |
高山英明「宗麟」 |
1588 |
天正16 |
|
|
この頃、瀬戸内海に海賊横行、七月豊臣秀吉海賊鎮圧令を出す |
海賊鎮圧令 |
1590 |
天正18 |
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この年宮部法師の検地あり、立石村高千石と記さる |
立石村明細帳 |
1592 |
文禄1 |
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吉弘統幸、大友義統にしたがい朝鮮の役に出陣す |
兼子鎮雄「吉弘一門」 |
1593 |
文禄2 |
|
|
大友義統が文禄の役の失態で改易され、山口に幽閉される。豊後国は太閤蔵入地となる。 |
兼子鎮雄「吉弘一門」 |
1596 |
慶長元 |
12 |
12 |
慶長の大地震で、瓜生島が別府湾に没したといわれる。 (諸説区々、調査の要あり) |
豊府記聞外 |
1598 |
慶長3 |
7 |
29 |
大雨による鶴見岳からの土石流で、別府湾の久光島が流没したといわれる。
(諸説区々、調査の要あり) |
豊府記聞外 |
1599 |
慶長4 |
|
|
別府地方は細川忠興の所領となる。 |
|
1600 |
慶長5 |
|
|
石垣原合戦あり、大友氏滅亡す
・九月十日、大友義統浜脇浦着船(一説九月九日)
・九月十三日、吉弘統幸戦死す、年三十八歳
・九月十三日、黒田如水実相寺山(角殿山)に来り陣をしく
・九月十五日、大友義統降伏す
|
安部 巌「石垣原軍記大成」 |
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|
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・この年オランダ船、リーフデー号豊後に流れつくという |
半田康夫「郷土史年表」 |
1601 |
慶長6 |
|
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鶴見村は森藩(来留島)領となり、その他の別府地域は北石垣村を除き木付城主松井康之の預地となる。 |
|
1603 |
慶長6 |
|
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目刈ハ幡が現地に移る |
南端村誌 |