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別府歴史年表

 

  

                  

 

       

別 府 歴 史 年 表 2  江戸時代
                                                                                ※ ○は規格の漢字にないもの

区分 西暦 元号

内       容

出 典

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代
1603〜1867
(1598,

1600

からと

する説

も)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代
1603〜1867
(1598,

1600

からとする説も)

1608 慶長13     東畑弥左衛門は石垣新左衛門を成敗し杵築城主松井佐渡守よ
り感状を受く
田原文書
1615 元和元     立石村が萩原兼従の領地となる。細川氏が速見郡の検地を行う。亀川地方は、日田永山城主石川忠総の所領となる。 豊後国村明細帳
1616 元和2     亀川地方は日田永山城主六万石石川主殿頭預所となる 久多羅木氏「別府の歴史」
1623 元和9     北石垣村・鉄輪村は松平忠直(一伯)の賄地となる。  
1624 寛永1     このころ枝郷小野極楽寺にキリシタン塔がたつ(このころ、
朝見・石垣・内戚などにも同一形式のキリシタン塔がたてら
れた)
キリシタン塔
        乙原にキリシタン板碑あり、このころか キリシタン塔
1626 寛永4     別府・南石垣・浜脇・小野小平の各村は筑紫広門の知行地となる。  
1633 寛永10 6 7 石川忠総転封により、杵築城主小笠原忠知が亀川地方の領主となる。  
1634 寛永11 7   野田村・亀川村・平田村・内竈村・古市村は丹後国亀山城主松平忠昭の所領となる。  
1644 正保1 12 25 徳川幕府諸国に令し、郷村高、同郡諸城の図を描かしむ 徳川実記
1645 正保2     速見郡古図、日出万里図書館にあり 正保御枕絵図
1646 正保3     古市に大入江やひがたかおり、船着きの便悪し 正保三年路程記
1650 慶安3 9 1 鳥越山が崩れ、土砂が谷を埋める。死者27人。 庄尾記録(田ロ村)
1650 慶安3     別府村と浜脇村の境争論で、松原浜は別府村内と定められる。  
1658 明暦4 7 18 鶴見権現社領 壱石壱斗壱合の記録あり 社領状
1659 万治2     石垣原合戦における死者の墓がたつ 墓碑銘
1661 寛文元     この年、別府地方に七嶋藺の栽培方法が伝わる。(1663年という説もある)  
1663 寛文3     石垣生誕の乾叟禅師は松院和尚の譲りを受け、蒋山四世の法燈をつぐ 兼子鎮雄「乾叟禅師伝」
1663 寛文3     府内の商人、橋本五郎左衛門琉球に渡って七島蘭の苗を持ち帰り、内成に植えるも失敗、寛文五年再度試み戚功す  
1664 寛文4 3   森藩主久留島通清が、火男火売神社に神殿を寄進。 銘 文
1666 寛文6     渡辺五郎右衛門が、照湯山で明礬製造に成功する。  
1694 元禄7 4 11 貝原益軒が史跡調査のため別府を訪れ、従者の衣笠半助に「石垣原古戦場見取図」を作成させる。(13日まで)  
1697 元禄10 5 17 野口で大雨による災害が発生。河川が決壊し、田地が崩壊する。  
1699 元禄12 2   別府村庄屋助之丞等4名連署し、高松役所に境界争論に関する口上書を提出(立石村と別府村の争論)。  
1707 宝永4 9 12 大雨洪水により、板地川が溢れ、松連寺山が崩れる。  
1717 享保2     脇儀助、 運上銀を上納して野田山明礬の製造を始める。  
1719 享保4     脇儀助、明礬の売れ行きが悪いため休山する。  
1725 享保10 8   脇儀助、森藩より運上銀1ヵ年3貫目余りで鶴見村明礬山を請負う。  
1727 享保12     脇儀助が日田代官に願い出て、運上銀1ヵ年2貫644匁で野田山明礬を請負う。  
1728 享保13 11 26 別府村と浜脇・田野口村の間で松原浜の境争論が起こる。  
1729 享保14 9 14 大雨洪水で境川が氾濫、大境村で15戸が流没。男7名、女14名が埋没死。  
1735 享保20     江戸と大坂に明礬会所が設立される。  
1743 寛保3 12 3 延享4年(1747)まで5年間、別府地方の幕府領は小倉城主小笠原忠基の預地となる。  
1750 寛延3     朝見村と別府村で秣場に関する争論が起こる。  
1758 宝暦8     京都と堺に新しく明礬会所が設立される。  
1761 宝暦11 3 14 銭瓶石騒動が起こる。  
1771 明和8 7 10 別府村と浜脇村で七嶋干場に関する争論が起こる。  
1795 寛政7     脇蘭室、海・紺屋・鬼山・円内坊・血の池等の諸地獄を訪れる。  
1799 寛政11 7 17 別府地方の幕府領は島原藩主松平氏の預地となる。  
    11 24 鶴見岳が鳴動し、1日15〜16回の地震が7日間続く。  
1800 寛政12 6 6 大雨洪水、境川が増水であふれ、薬師丸谷・境河原・森田ノ下地方を海に押し流す。境川南岸を50間程築き立てる。  
1810 文化7 2 21 伊能忠敬、九州測量のため別府を訪れる。  
1811 文化8 1 4 伊能忠敬、再度別府を訪れる。  
1823 文政6 1   明礬山下に大地獄が噴出する。  
1828 文政11 7 2 大暴風雨で別府海岸の石堤280間が崩壊する。  
1830 天保元     この頃、別府村の戸数240戸、総人口は1,595人であった。  
1832 天保3 9 11 大雨、高波により、亀川辧天宮社地破損し、村内は水に押し流される。  
1842 天保13     久留島藩が鶴見村照湯の大改修を行う。  
1843 天保14     明礬会所解散、直売が認められる。  
1850 嘉永3 8 3 大風水害がある。大雨は13日間におよび、海辺の家屋50軒ほど倒壊する。白米1升が5札4匁となり百姓一揆が起こる。百姓は木の実、草の根を食う。横灘北組諸村では140軒余りが倒壊する。  
1851 嘉永4 2   横灘村々生活困窮、高松役所に扶助米の拝借を請う。
この年発行された「諸国温泉効能鑑」で、浜脇温泉は西前頭3枚目、別府温泉は6枚目にランクされた。
 
1855 安政2 7 29 大雨洪水により、丸尾山下の川筋大決壊・乙原川の崩壊・塩地蔵の上が決壊・楠湯で大浸水・永石川尻が大破・堺天神付近が埋没・生目神社北側崩壊・石垣往還が大崩壊・鳥居峠下で大崩壊など、大災害となる。  
1858 安政5     長崎に始まったコロリ(コレラ)が別府に伝染。8月末までに5、60人患い、浜脇村では37、8人が死亡。  
1863 文久3 6   矢田希一が、私塾 「対岳楼」 を開設。  
1867 慶応3     府内藩が海岸沿いの道を拡幅するが、しばしば崩壊した。  
1868 慶応4 4 25 府藩県三治制により、幕府領は日田県となり、松方正義が日田県知事となる。  

 

                                                       

 

 


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