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浴場史 江戸時代

 

 

 

                     

 

江戸時代
 

江戸時代になると浴場に関する記録はさらに多く残された。
 元禄7年(1694)筑前国福岡の医学者・貝原益軒の『豊国紀行』4月1日の条に、
 

(上略)頭成より里屋へ一里有。此間坂多し。石多くして路阿しく、里屋に温泉有。塩湯也。

里屋村を又亀川村とも云。平田村は里屋の南に有。鉄輪村は別府の北一里余りに有。実相寺山より猶北也。

熱泉所々に多し。民俗是を地獄と?す。湯の上にかまへたる風呂有。病者是に入て乾浴す。

又其辺に湯の川有。瀧有。瀧の高さ二問半斗病人是に打連て浴す。(中略)別府は石垣村の南に有。

民家五百軒斗。民家の宅中に温泉十所有。何連もきよし。庄屋の宅中に阿るはことにいさぎよし。

凡此地の温泉は他郡に増りてきよく和なり。家々には多きゆへ、其館にやどれる客の外に浴する者なし。

故に浴数も時問も家の心に任せて自由也。他の温泉のか満びすしくさはがしきに似ず傍に懸桶の水阿りて温熱心に任せて増減しやすく。薬師堂の辺にある温泉の傍に熱湯あり、其上に乾浴する風呂阿り、是又きよし。町半に川有り。東へ流る。此川に温泉湧出。其下流に朝夕里の男女浴す。又海中にもいつ、潮干ぬ連ば浴するもの多し。塩湯なれば殊によく病を治す
 

という昭和14年4月25日森平太郎編日名子本「豊国紀行」別府市立図書館蔵と、里屋温泉のこと、鉄輪温泉のこと、鉄輪滝湯のこと、別府町のようす、宅中温泉、川端温泉、海中温泉のことなどにっいてくわしく記されている。
 また、この記録によって、元禄期すでに温泉が浴場としてさかんに利用されていたことや、砂湯がさかんに利用されていたことがわかる。それから19年のち、正保3年(1713)の『倭漢三才図会』には、
 

湯嶽在府中西有温泉、俗云由布山、而毎流出皆湯也。
 

また、同書〈地理部〉に
 

湯の川有。中には、別府村豊後硫黄洋之海邊也、有温泉潮盈時湯為海中
 

と記されているが、これらの記録からも、江戸時代初期における別府地方の温泉の状況をうかがい知ることができる。その後、江戸時代中期末の天明 3年(1783)、古川古松軒の紀行『西遊雑記』(森平太郎編『西遊雑記』)をみると、

(上略)湯の嶽、鶴見が嶽と構する山は、當国第一の高山にて、鶴見が嶽は天気不勝節は、燃へて煙たつなり。麓にかんなわ村といふあり、此所に地獄と称せる所数多にて(中略)。すべて硫黄地にて臭気鼻を穿事なりし。別府といふ町に出る。ながながしき在町にて、家毎に湯有り。此温泉は、熱からずぬるからず、痔、腫物に功有りとて、入湯の者も来る所なり(中略)。五月十一日に彦山を発足して、同十七日やうやう別府に来りし事なり。是までの宿々にては、水に硫黄の臭気ありて、飯にも汁にも硫黄の匂ひうつりて、甚屈せし事なりし1(以下略)。
 

と温泉浴場のことがくわしく記されている。

さらに、それから16年後の文化6年(1809)、伊藤常足は『大宰管内志』に、
 

(上略)さて文化六年、常足が都よりかへる、舟より周防灘を下るに、西南方にあたりて、高き山より煙の立てるが逢かに見ゆるを舟人にとひたるに、そは、豊後国鶴見山より立のぼる煙なるが、空よく打はれて、波風静なる折には、必此あたりの海よりも見ゆる事なりとこたへたりき。
 

と記している。ここに記されている「煙の立てる」は、現在、鶴見岳の北東斜面から吹き出している噴気を指すのであろう。ついで、寛政 7年(1795)脇蘭室は『函海漁談』に、
 

古市と云には、潮退たる時汀沙より煙立つ。ここを穿ば温泉湧出、人々自ら沙を左右に推て石菖を敷き、石枕にして臥す、其身を藏すほどに温泉湛ふ。熱すればしばらく避て、又浴するに媛適なり。冷なれば浴しながら沙をとれば、底より熱気加りて意の如く適なり。久しく浴して厭ふ時は、所を移して又穿てば、新湯を開く。
 

と、砂場利用のしかたについて記している。
 以上は、別府に訪れた文人の見た別府だが、これらの記録から、江戸時代における村々の温泉や入浴の状況、山嶽海岸の風景、旅路や往還の状況などをくわしく知ることができる。江戸時代も末になると、別府はますます温泉場として設備もととのい、入湯客も多くなってくる。つまり、温泉宿が建ちはじめたのである。『別府町 史』(大正元年)によれば、
 

 文化年中(一八〇四-一八一八)別府に於て湯株を有したるは左の十八戸にして、当時新たに湯株を受得たるもの三戸あり。その屋号・人名を次に示す。(以下略)」と記して、府内屋太郎兵衛、中津屋勘兵衛、天満屋三郎兵衛、伊豫屋利右衛門、三佐屋七郎右衛門、延岡屋孫之丞、田中屋茂兵衛、杵築屋平兵衛、竹田屋喜右衛門、角屋源左衛門、上角屋太兵衛、豊前屋兵左衛門、植田屋源右衛門、植田屋次郎兵衛、国東屋九左衛門、布屋平之丞、小倉屋勘右衛門、伊勢屋孫左衛門。新株三戸。竹田屋九兵衛、中津屋清右衛門、角屋六左衛門。
 

などの名をあげている。また、鉄輪温泉場も江戸時代の末には温泉場としてさかえており多くの入湯客が訪れていた。それはつぎの記録から推察することができる。(脇氏蔵『高橋文書』)

差上申御願書之事拙僧義、兼而病身ニ付入湯致度、猶又少々快方ニ御座侯ハ、、近国霊場参詣も可仕、去
申(天保七か)六月国元出立仕御近辺鉄輪ニ而致入湯、追々少々快方ニも相成侯問、近国佛閣順拝、此節帰国之積ニテ御当所○罷越侯処、不斗病気再発仕途中打臥罷在侯処、御当所之人見請○ニ相憐ミ呉、猶又御下役中御越医師御遣シ茶食事等御世話被下辱奉存侯、然ル虚何分急ニ快方も致間敷ニ付、御手数之儀ニ者奉存候得共、国元○御村継御立被成下侯様御願申上候、何卒御当所始御村々御憐愍以国元へ御継送り被下○ヘハ、難有奉存○、依之御願書差上申○…以上小倉領豊前国田河郡河賀村禅宗幸国寺弟子鉄道□口役所

 

 

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