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浴場史

 

 

 

               

 

 

明 治 期


明治に入ったとき、すでに別府地方には、
弦月泉(東の湯)、清華泉(西の湯)、浜脇薬師湯・永石の湯・九日天湯、朝見の湯、楠湯、観海寺湯、鳥の湯、堀田ノ湯、堀田ノ東ノ湯、宮路ノ湯、照湯、伊麻井ノ湯、谷ノ湯、大西の湯、岡野湯、湯河原の湯、渋の湯、熱の湯、鉄輪むし湯、鶴寿泉、地蔵湯、柴石湯、御夢想湯、四の湯、蕩邪泉、
などの浴場があった。さらに、海岸線に沿っては、
亀川砂湯、港北砂湯、港南砂場、浜脇砂湯
などがあった。豊富な温泉に恵まれていたわけである。
 このような状況の中で、別府・浜脇はしだいに温泉観光都市としての性格をみせはじめる。

明治4年(1871)の別府港の竣工はその動きに一層拍車をかけた。そのため、当時の為政者は温泉場整備の必要を痛感したのであろうか、

・明治五年には清華泉(西の湯)、

・明治 7年(1879)には紙屋温泉、

・続いて同 8年には不老泉、永石温泉新湯(楠湯)、渋の湯

などを整備した。なお、明治5年の清華泉と7年の紙屋温泉、8年の渋の湯は、県費による改築であったという。(一書には、明治 7年紙屋温泉、浜脇温泉、亀川温泉が県費によって改築されたと記されている)。ついで、同12年(1879)になると竹瓦温泉が新築され、清華泉は補修された。
 浴場以外の施設としては、明治4年(1871)の波止波神社の創建、同5年7月1日の別府郵便所設立、同6年の大阪開商社汽船「益丸」の就航、同 8年6月の大暴風雨によって別府港の大破、大小区制の実施、同9年には大分別府国道の三等国道昇格などがあった。
 その後、同13年の南小、北小の分立、県警別府分署の創設。同15年前後の運輸会社の乱立。同17年の大阪商船別府代理店の設置。同18年鉄輪学校、鶴見学校の合併、南立石小学校の焼失などがあった。大きく変化した時代だったのである。

 

明治中期(温泉観光への目ざめ )
明治中期は、別府、浜脇両町が町制をしき、それぞれの立場から温泉行政に取り組んだ時期だった。
一方、民間においても浴場経営に対する意見が積極的にのべられた時期であった。
明治21年、佐藤蔵太郎の「別府温泉記」に、

一、遠来の患者疲労したるときは、暫時休息して、然る後、入浴すべし。決してにわかに入るべからず。
一、最初の一週間は一日二回、爾後は三回とし、入浴は十分間より二十分を間を過すべからず。
一、虚弱なる患者及び老人小児は、初より数回入浴すべからず。又、長湯すること勿れ。
一、入浴はなるべく静かにすべし。大声又は湯中を潜などすべからず。
一、湯治中は、大酒暴飲を慎み、又飲食後は必ず散歩して、直に臥床に就くべからず。(以下十項目略)


など15項目が示されていた。
明治20年代になると、別府地方の浴場はかなり整備されてきた。
明治21年(1888)加藤賢成の「豊後名勝案内」を見ると、

○不老の湯は、市街の西の方田の中にあって、構造は楠湯と同じで、そばに人工の温泉滝がある。
○楠湯は、石で浴場をつくり、男湯と女湯の二池に分けられており最も清潔である。温泉は大きな楠のわきよ   

り湧きだしているので「楠湯」と名がつけられ、浴室は瓦屋で板塀があるので、雨風寒暑の時もさしつかえはない。

○西の湯は、浜脇町の中にあり、浴室は瓦葺きで浴場は石で造られ、浴池の底には細沙をしき、湯は沙のあいだより湧き出している。浴湯は九カ所あり、温度は同じではない、人々は好きなようにはいってよい。


という意味のことが記されている。
これによっても、すでに明治20年代初期には予想以上に浴場の整備がすすんでおり、当時の為政者がなみなみならぬ意欲をもって浴場行政にとり組んでいたことがわかる。その結果であろうか、この頃を期として入湯客も増加し、設備の充実が追られることになった。
 明治25年(1892)頃になると、別府浜脇両温泉場の名は全国的に知られるようになり、同年の『諸国温泉一覧』には、浜脇温泉が前頭 4枚目に、別府温泉が前頭7枚目にランクされた。なお、霊潮泉の新築がなったのは、この年である。
 明治26年(1893)4月18日には、別府、浜脇はそれぞれ町制をしき、両町競って温泉観光にのり出した。
しかし同27年に日清戦争が勃発し、一時、観光開発は小康状態となった。
その後、

・明治30年(1897)には浜脇薬師温泉の落成。
・同35年(1902)には竹瓦温泉の改築。
・翌36年(1903)には不老泉の改築がおこなわれた。

その間、33年(1900)には別大電車が開通し観光客誘致に一役を買った。
なお教育の面では、同35年(1902)に工業徒弟学校が創立された。

 

明治後期 (浴場の整備 )

日露戦争が終わったころ、「目標を一つにする別府と浜脇は合併すべきだ」と言う意見が多数をしめていた。その結果として、明治39年(1904)4月1日には両町が合併、人口六、七九四人の〔別府町〕が誕生した。
時の町長・日名子太郎は、同39年に西村天囚を、同四十年に菊池幽芳を招いて別府の宣伝にのりだした。また、明治42年(1909)にはく上等温泉取締規程Vを制定した。
その背景には、浴客の増加とともに、浴場道徳の乱れが目にっきはじめたことや、正常な浴場経営をし、観光発展に役立てるためには、規程にしたがって運営することが好都合であることに気付いたためであろう。

この規定は、同年3月の町議会で議決された。

別府町上等温泉取締規程
第一条 上等温泉の入浴時問は午前五時より午後十二時迄とす。
第二条 左の事項の一に該当したるものは入浴を拒絶することあるべし。
一、公衆の忌避する疾病、若しくは伝染病の恐れありと認めたる者。
一、入浴場の秩序を○り、看守人の制止を肯ぜざる者。
一、大酔したる者。
 入浴人待遇方法
一、不老泉特等、上等及西温泉上等の入浴者に対しては左の待遇を為すものとす。
一、不老泉特等入浴券を所持する浴客は三階に案内し、茶菓、浴衣、手拭、石鹸を供す。
  第一種入浴券を所持する浴客は二階に案内し茶を供す。第二種入浴券を所持する浴客は、
  単に上等温泉入浴に止るものとす。
一、西温泉第一種入浴券を所持する浴客は三階に案内し茶を供す。
  第二種入浴券を所持する浴客は単に上等温泉入浴に止るものとす。
 海岸

第一条 海岸砂場は本規程により之を管理す。
第二条 海岸砂場は入浴料及び衣服携帯品管理料として一浴金三銭を徴す。
     但、六歳以上十歳未満は金弐銭とす。入浴時間は一浴三十分以内とす。
第三条 砂場の設備は町に於て之を為し、其使用に就ては之を請負人に渡す事あるべし。
第四条 前条に依り砂湯を請負人に渡さんとする時は競走入札に付するものとす、
     但、本町に於て必要と認めたる時は、指名競走入札に付する事を得。

付「湯突きやぐら」のこと
明治三十年代になって盛んとなった上総掘りの"湯突き"は、明治12年に万屋儀助が始めたとも、明治 22年、のちに別府市長になった神沢又市郎が始めたとも伝えられている。
この"湯突き法〃は、孟宗竹で造った天びんの弾力に人力を加えて掘り下げるものであった。やぐらの仕組みは、櫓・天びん・竹へご・のみ・しゆもく・巻きとり・仕事台などからなる。その役割りは、.櫓(やぐら)……杉や檜の丸太を使って組み立てた。

・天びん…別府産の孟宗竹を使い、片天びんと、両天びんがあった。両天びんの方が力が強いわけである。
・竹へご-…かねてからたくさん造って準備してある竹ひごを使う。
・のみ…湯突き師は、自分でのみを鍛える技術を持っていて、数種類の鉄製のみを持っていた。
地下の固さかげんで刃先を変えなければならなかったからである。
・まるしゆもく……作業員がとりついて作業をする。深くなってノミが重くなると、とりつく人数をふやした。
・巻きとり機(巻き掲げ)……木造で、中に人がはいって廻転させノミを巻き揚げた。
・仕事台……職人達が乗って作業するところ。

などであった。作業に当って、職人達は、威勢があがるように、はやしをしながら突いたものである。この湯突き法は、明治・大正・昭和と長く続き、昭和二十八年頃まで続いた。

 

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