奈良・平安時代
瀬戸内海が西につきるところ、別府の海岸地帯(横灘ともいう)には、古くから暖かな泉が湧き出していた。
『伊予の国風土記』(8世紀初めか)には
大分速見湯自下樋持度来
・・・
(神代の昔、少彦名命(すくなひこなのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)
の二柱が伊予の国を訪れた時、少彦名の命が病を得て卒倒し、嘆き悲しんだ大国主の命が、豊後水道の海底に長いパイプを敷いて、別府の温泉を道後へ運び、少彦名の命を湯浴みさせ、
病気が回復した)
と記されていたり、『豊後風土記』に、
赤湯泉在郡西北(下略)」玖倍理湯井在郡西(下略)
別府温泉が記録に残された最初のものであり、古くから温泉の湧出地であったことがわかる。
また、神杜や寺院の縁起などに温泉にまつわる伝説が残されていることもそれを証するものであろう。
たとえば、朝見祇園杜(八坂神杜)の縁起に、
大貴己命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)が天下り、神通力をもって加持をし、山神楽を奏したり、書夜の祈りをしていると、温泉より五色の煙が立ちはじめ、毒気が消滅し薬湯となったので、村人達は大変よろこび、その温泉に入浴したところ、たちどころに治ったので、遠く近くから里人たちが集まり、その温泉に浴した。(原漢文)。
などと書かれているのは、その一例である(砥園温泉の条、参照)。
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