大正期 (温泉と観光)
明治末にはじまった観光開発は、大正期になってようやく観光都市化の道をたどる。
大正期といえば、日露戦争後に訪れた内外動乱の時代であったと言ってもよい、国内では第一次護憲運動、外では第一次世界大戦、そして関東大震災をはじめ、労働者の貧困、町村財政の破綻などが同時に押し寄せたのである。まさに、日本民族にとって未曽有の試練の時だったのである。
こんな困難な時期であったが、別府市民は叡智を集め観光都市として浮揚し、著しい変化を遂げて行くのである。その力は、どこから生まれたのであろうか。
それは、風光明媚な自然と豊富な温泉。さらに恵まれた地理的位置に着目した当時の為政者たちが、経済の貧困を救うためにその手段を観光に求めたことによるものである。
だが、開発の力はそれだけではなかった。別府を訪れ、別府を見た人々が、未来の夢を別府に託して観光開発に専念したことも見のがしてはならない。
以下、大正期浴場改善の事例を記してみると、
・大正2年(1913)には竹瓦温泉の改築がある。
・この浴場は明治12年の開設であったが、明治25年(1902)に再改築され、その面目を一新していた。
それは、温泉観光を表看校にする別府にとって、貧弱さが目につくようになったからである。完成した浴場は、きわめて宏壮なものであり、大正4年の〔別府温泉案内〕には、
「時勢の進歩は、粗末なことでは捨ておかれず、大正二年五月、二階建の宏壮な家に改築した」
(第二篇、竹瓦温泉の条参照)
と記されていた。
大正3年(1914)には二、九八五円(別の記録には三、一五八円とある)を投じて楠温泉が改築された。この浴場は無料公開で、民衆的大浴場としてのきこえが高く、内外の入湯客が集まった(第二部「楠温泉」の条参照)。
大正5年(1916)には、紙屋温泉の改築、市有梅園温泉の開設があった。大正6年(1917)になると、五、六一四円を投じて海岸沿いにあった霊潮泉の改築が行なわれた。この浴場は、古くからあった温泉で、明治
26年の大災害後の改築であったため老朽化していたが、改築によって入湯客は急連に増加した。
浴場入口には〔霊潮泉〕と書かれた日置黙仙禅師の扁額が掲げられていたことは広く知られている。
なお、この年の3月31日に上水道が完工し、給水人口は25000人となり流川が埋め立てられ、臼動革の定期運転が開始された。
大正7年(1918)になると、別府町温泉調査会ができ、その規程が設けられた。
規程には、次のように記されている。
第一条町長管理ノ下ニ調査要員ヲ置キ温泉調査会ヲ設ク。
第二条 温泉調査会ハ町内ニ於ケル公私設温泉ヲ調査シ、之レカ永遠保護ヲ講究スルモノトス。
第三条 温泉調査及保護ノ方法ハ総テ調査委員会ノ決議ニ依リ之ヲ定ム。
第四条 調査委員ハ七名トシ、町会ニ於テ町会議員中ヨリ選挙ス。
第五条 調査委員ノ任期ハ町会議員ノ任期ニ依ル、調査委員中欠員ヲ生シ町長若シクハ調査委員会ニ於テ必要を認ムルトキハ補欠選挙ヲ行フヘシ。 (以下略)
大正8年(1919)になると、田ノ湯温泉の移転改築。砂場上り湯の開設、温泉神杜の創建などがある。田の湯温泉は、それまで現在地の西北鉱泉地に二槽からなる草葺き浴場だったが、同8年に現在地に移され二階建の浴場となったものである。この年の12月、別府公園に創建された温泉神杜は、もと「朝見の湯」の山手にあった長谷神杜を移して温泉神社としたものであった。
明けて大正9年(1920)には、別府港に大坂商船専用の固定桟橋が完成し、これまで活躍した渡し舟が影をひそめた。大正10年(1921)3月になると不老泉の改築がおこなわれた。
不老泉は、古くは「田中ノ湯」と呼ばれた温泉ですでに明治8年および明治38年に改築された大きな浴場であった。大正改築は10万760円を投じた大改築で、その面目を一新した(不老泉」の条参照)。
その後は、大正13年(1924)の霊潮泉の再改築、港南砂湯の市営化などがあるが、観光施設面では、大正
11年(1922)に観海寺めがね橋完成、同12年(1923)には別府-浜脇桟橋間に電車開通、そして屋島丸が別府就航、大正14年4月には市制施行がおこなわれ、人口
36,276人となった。
この年、整備した施設としては、物理学研究所の完成、別府駅の改築拡張、亀の井ホテルの完成、幸町の焼却場の完成、別府市役所の設置などがある。
大正14年(1925)になると、1月に亀川海軍病院が完成。2月15日には鶴見園の創設開業。別府遊園地の起工などがあった。
だが、この年は、いいことばかりではなかった。松原にあった松栄館の焼矢。鶴見地獄の爆出などもあった。
翌
大正15年(1926)、昭和元年になった年の2月1日に、エンプレス・オブ・スコットランド号(3万500トン)が別府港に姿を見せた。
なお、大正期を通じて観光客の足となって活躍した人力車(腕車)の賃金は、大正9年9月の場合(『別府温泉案内』)、
桟橋より、別府各宿屋及別府駅迄金二十銭。松原公園、浜脇迄廿五銭、朝見迄金三十銭。
市内、十丁以内二十銭、十五丁以内金廿五銭。二十丁以内金三十銭、一里以内金四十銭。市外、観海寺・新別府・亀川まで金四十五銭。鉄輪迄金六十五銭。明礬迄金七十六銭(片道)。一旦雇切(三里以内)金二円五十銭、半日金一円五十銭。客待ち一時間毎に金十五銭。但し、暴風難道夜間は二割乃至五割増し
であった。
以上、竹瓦温泉・楠温泉・霊潮泉・田の湯温泉・砂湯上り湯.温泉神杜.不老泉.港南砂湯などの改築や創設を中心に、大正期の観光事業を記したが、大正期は、まさに行政面からも観光面からも飛躍の時期であったということができよう。
大正期における有名温泉の整備は、大正13年(1924)の市制施行を期として著しく進展した。
これは別府(旧別府)周辺の温泉場にも大きな刺激を与えた。
観海寺・堀田.鉄輪.明礬・柴石・亀川などの温泉場でも、着々と観光客を対象とした構造そのための改修や新築をすすめる傾向となった。
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