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浴場史

 

 

 

                     


 

昭和期

 

昭和に入ったとき、別府は中外産業博覧会の準備に忙殺されていた。つまり、博覧会を意識して各浴場の整備をしていたのである。
ところが、別府周辺の各温泉場では、博覧会を意識しながらも、それぞれの独自の立場で、その発展を期待しながら浴場の整備をすすめていたのである。
その主なものを記してみると、
 

 昭和2年(1927)・・・

         鐵輪ひょうたん温泉・亀川亀陽泉等が完成し、浜脇東西温泉の改築に着手する。
 昭和6年(1931)・・・霊砂泉竣工し、九州大学温泉治療学研究所の開所する。
 昭和7年(1932)・・・野口温泉が開設される。
 昭和10(1935)・・・

          亀川町、朝日村、石垣村が別府市に合併し、人口62,346人となる。
 昭和11年(1936)・・鉄輪むし湯、天然砂湯などが改修される。
 昭和12年(1937)・・竹瓦温泉改築、この年(国際温泉観光大博覧会)がおこなわれる。
 昭和15年(1940)・・柳温泉が改修される。
 昭和16年(1941)・・

          永石温泉改築、この年12月8日、日本は米英と戦争状態にはいる。
などがあげられる。

昭和2年にできた鉄輪の「ひょうたん温泉」はその特異な建築様式が人々の注目をあび、入湯客が急に多くなったという。しかし、昭和20年5月、「米軍機の目標になる」との理由で撤去されてしまった。僅か十九年のいのち、まことに惜しい建て物であった。

つぎに、同年改修整備された亀陽泉は、亀川温泉場の代表的な浴場であり、その面目を一新した。

昭和3年(1928)、〈中外産業博覧会〉の年に完成した浜脇温泉は、浜脇東温泉(弦月泉)と浜脇西温泉(清華泉)を合併して改築された。建物は別府市公会堂と同じ近世オランダ式の鉄筋コンクリート建築の浴場で、その規模と設備は全国に誇り得るものであった。

なお、この年、石垣村では、餅が浜温泉を開設し公衆の用に供した。

いづれにせよ、昭和3年という年は、別府市にとっては、内外ともに多忙な年であった。のみならず、一方では別府発展のために意義ある年でもあり、また、観光施策に自信を得た年でもあった。

ついで昭和6年(1931)には、霊砂泉の開設竣工、九州大学温泉治療学研究所が開設された。また、海門寺公園・別府グラウンドなどが新設された。まさに飛躍の年であった。

明けて昭和7年(1932)には野口温泉が創設された。そのころ市内には、

浴場名

場所

泉 質

浜脇温泉

浜脇

炭酸性含塩泉

楠温泉

楠町

炭酸性無色透明

霊潮泉

港町

炭酸性合塩泉

竹瓦温泉

北浜

炭酸性含塩泉

不老泉

不老町

炭酸性、無色

田ノ湯温泉

田ノ湯区

炭酸性白色半透明

海門寺温泉

海門寺区

炭酸性塩類泉

海岸砂湯

北町下

炭酸性

梅園温泉

梅園町

炭酸性

下野口温泉

下野口区

炭酸性白色濁

薬師温泉

北町上駅前

炭酸性単純泉

的ケ浜温泉

的ケ浜区海岸

炭酸性鉄類泉

日ノ出温泉

浜脇向浜海岸

炭酸性合塩泉

寿温泉

北町下

炭酸泉無色透明

柳温泉

楠浜区柳町

炭酸性単純泉

松寿泉

楠浜区柳町

炭酸性単純泉

弓松温泉

老松区春日通

アルカリ泉、無色透明

八幡温泉

字田島

アルカリ泉、無色透明

朝見温泉

朝見

アルカリ泉、無色透明

霊砂泉

浜脇海岸

炭酸性弱塩泉

紙屋温泉

南町

炭酸泉、白色濁

春日温泉

行合町

炭酸泉無色透明

皐月温泉

老松区(春日通三丁目)
 

 

万歳泉

錦区(秋葉通踏切り上)

炭酸性、単純泉

此花温泉

此花町

無色透明

二条泉

北浜区(不明)

 


などの公設浴場があった(昭和一〇、二「市勢要覧」。それらの浴場中、市費によつて管理運営されていたものは、浜脇温泉・楠温泉・竹瓦温泉・不老泉・砂湯温泉.霊潮泉.田ノ湯温泉などであった。

明けて昭和十年(一九三五)は、別府市にとって飛躍の年であったのである。

九月には亀川町・朝日村・石垣村が別府市に合併し大別府市となった。

これまで、それぞれの市町村でおこなわれた温泉行政は一本化され、同11年(1936)4月2日には

(市設温泉規程)が改正され、市費を以て管理維持すべき温泉浴場として、

 

浜脇温泉、楠温泉、竹瓦温泉、不老泉、砂湯温泉、霊潮泉、田ノ湯温泉、海門寺公園温泉、浜田温泉、

亀陽泉、亀陽泉砂湯、四ノ湯温泉、御夢想温泉、柴石温泉、霊潮泉蒸湯、観海寺桜湯温泉、復興泉、

蒸風呂温泉、上渋ノ湯温泉、下渋ノ湯温泉、上熱ノ湯温泉、望洋泉、望潮泉、堀田温泉、堀田東温泉、

観海寺高等温泉、北町温泉、下熱ノ湯温泉、鶴寿温泉、地蔵温泉、今井温泉、薬師温泉、

 

などが定められた。規程の改正が終わると、市は直ちに老朽浴場の改修や改築にとりかかった。最初に改修されたものは、鉄輪蒸湯と天然砂湯であり、改築に手がっけられたものは竹瓦温泉であった。

これは、翌年度におこなわれる博覧会に対応するための施策の一つでもあった。

昭和12年(1937)には、〔国際温泉観光大博覧会〕がはなばなしく開催された。

博覧会は、昭和12年3月25日から同年5月13日までの50日問、別府公園一帯12万5,000平方が(3万8、000坪)の敷地で開催された。

この写真はその時のポスターであり、当時の別府市が博覧会にかけた意欲を知ることができる。

昭和12年といえば、小野廉市長時代であり、大陸の戦局は拡大の一途をたどり、大陸関係者の来別は多かった。

大陸の戦局拡大の中で、なぜ博覧会が開かれたのであろうか。その理由について昭和48年版『別府市誌』には、鉄道省国際局では、「日本の真価を内外に宣揚し、国際観光地として観光事業の経済化を図るL動きもあり、さらにまた、昭和 10年9月に、亀川、朝日、石垣の一町二村が別府に統合されて、一大温泉郷の建設がすすみ、7万の固定人口をもつことになったことなどから、これを記念して(中略)開催されるに至ったのである。

と記している。そして、この年に、竹瓦温泉の改築が完成する(竹瓦温泉の条参照)。

このころの西欧人の来別としては、ヘレン・ケラー女史や、ヒットラーユーゲントの来別がある。

ヘレン・ケラーは明治13年6月27日、アメリカのアラバマ州カスタンビアに生まれたが、生誕1年9ケ月で三重苦を背負う身となるも、屈せず努力し、聖女と呼ばれた。

女史は、昭和12年、五七歳の時に来日、不幸な人達を救済するために各地で講演をした。大分地方には同年6月に訪れた。別府では亀の井に宿泊。多忙な講演旅行であった。
だが、その合い問をぬって別府観光地の見学もした。この写真は、鉄輪海地獄を訪ねたときのもので、別府市にとっては貴重な写真の一つである。
昭和13年(1938)になると、西欧人の来別はほとんどなくなった。しかし10月23日にはヒットラー・ユーゲントの一行20名が来別した(ふるさと写真集「別府」。
一行20名は、ナチスの軍服姿で来別、市民多数の歓迎を受けた。この日、別府中学校全校生徒は流川通りで歓迎し、さらに翌24日歓送した。なお、この日、市内の高等女学校・高等小学校・小学校の児童生徒も歓送迎に出席した。
このころから大陸における戦局はしだいに拡大し、それにともなって別府に訪れる勧光客は減り、浴場も次第にさびれていく。
しかし、日本と中国大陸との関係は一層ふかくなったため、大陸からの来別者はかなり多かった。
このような状況の中で、市は柳温泉の改修(昭和15年(1940))や、永石温泉の改築(昭和16年(1941))等をおこない、さらに同 16年(1939)には「別府市市設温泉規程」を改正、告示し、温泉浴場経営の統一をはかった。

この「改正温泉規程」には、

   第一条
市内温泉ニシテ市費ヲ以テ管理維持スヘキモノ左ノ通リ定ム。
浜脇温泉、楠温泉、竹瓦温泉、不老泉、砂湯温泉、霊潮泉、田ノ湯温泉、海門寺公園温泉、浜田温泉、

亀陽泉、亀陽泉砂湯、四ノ湯温泉、御夢想温泉、柴石温泉、霊潮泉蒸湯、観海寺桜湯温泉、

復興泉蒸風呂温泉、上渋ノ湯温泉、下渋ノ湯温泉、上熱ノ湯温泉、望洋泉、望潮泉、堀田温泉、

堀田東温泉、観海寺高等温泉、北町温泉、下熱ノ湯温泉、鶴寿温泉、地蔵温泉、今井温泉、薬師温泉、

永石温泉、柳温泉、
第二条
市勢発展ノ為、必要アルトキハ、前条温泉ノ外、市会ノ議決ヲ貝テ新ニ温泉ヲ設置スルコトヲ得。

 

と記された。

なお、このころ浴場維持のために賃貸されていた市有温泉は、不老泉家族湯ならびに上等湯浜脇温泉家族湯ならびに上等湯田ノ湯温泉上等湯柴石温泉附属建物四ノ湯温泉建物四ノ湯温泉附属建物観海寺高等温泉北町温泉観海寺復興泉などであり、賃貸期問は満 3年で、競走入札、または指名入札で貸し与えていた。

昭和16年(1941)12月8日、第二次世界大戦が始まり、日本は米英をはじめとする国々と戦争状態に入ったため、外国人の来別は皆無となった。
別府に訪れる者は、国内の加療軍人や、一般療養客だけとなり、温泉場は次第にさびれていった。
温泉浴場については、その維持がやっとであった。


戦後の浴場経営
戦後における温泉浴場の経営は(別府国際観光温泉文化都市建設法)(以下(別府法)という)の趣旨にそっておこなわれた。
明治期の産業立市から観光立市へ。大正期の観光立市。昭和初期の観光立市から敗戦へ。昭和二十年をむかえたとき、別府温泉場は荒廃の極に達していた。

8月15日敗戦。戦争が終わったとき、これからの別府はどう進むべきか、迷い続ける幾年かがすぎた。しかし遂に再度、観光に活路を見いだした。

昭和25年(1950)4月7日には、〈別府法)が国会を通過。

同6月1日には別府市民による住民投票。同7月18日には、法律第二百二十一号として制定施行のはこびとなった。この法律は、日本国憲法第九十五条に、

 

一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の

住民の投票において、その過半数の同意を得なければ、国会はこれを制定することができない

 

とある規定に基づく法律であるが、その背景には、敗戦によって生じた生活の不安定と、荒廃した国土の復興と平和と文化の創造を求め、世界に飛躍しようとする国民の願いがあったと考えてもよいだろう。
もちろん、この考えは、全国津々浦々、都市であろうと農村であろうと全く同じであった。わけても戦災を蒙った都市においては、直接に当面する問題として復興計画がたてられ、条例が制定され、物資不足の中で営々と作業がすすめられていった。

「別府法」の場合、このことを裏付けるように第一条の目的に(この法律は、国際文化の向上を図り、世界恒久平和の理想を達成すると共に、観光温泉資源の開発によって、経済復興に寄与するため、別府市を国際観光温泉文化都市として建設することを目的とする)と記されている。

そのころの事情について、当時、建設大臣であった戸塚九一郎は、

 

「国際特別都市に関する法律は、国際的文化、温泉資源の開発など、国際温泉都市、住宅都市の機能を発揮するために必要な都市機能を整備し、国際文化の向上と経済復興に寄与する目的をもって議員提案により国会において議決され-…(下略)」

 

と述べ、また時の別府市長・脇鉄一は、

 

「別府法の制定公布を契機として、観光事業の振興と新都市の建設とに市政の重点を志向し、綜合計画を樹立。直ちに、その基礎的施設である国際観光港、国観ルートならびに公園上下水道等諸般の建設事業に着手しました」

 

と、〈別府法)制定公布後2年目の昭和28年(1953)6月に別府市として着手した事業について述べている。以上は、別府法制定に関する事項であるが、その後の行政は、その線にそって実行されていった。もちろん、温泉行政もこれによってすすめられた。
現在(昭和59年)、市費をもって、維持管理する公の施設に属する市有の温泉施設「市有温泉条例」は、

浜脇温泉
   別府市浜脇一丁目八番二号
浜脇高等温泉
   別府市八番一〇号
竹瓦温泉
   別府市元町ニハ番二三号
不老泉
   別府市中央町七番一六号
田の湯温泉
   別府市田の湯町四番二三号
海門寺温泉
   別府市北浜二丁目二番五号
永石温泉
   別府市南町二番二号
鉄輪蒸湯
   別府市大字鉄輪二二一番地
柴石温泉
   別府市大字鉄輪八四六番地
渋の湯温泉
   別府市大字鉄輪二二一番地
下渋の湯温泉
   別府市大字鉄輪二一七番地
上熱の湯温泉
   別府市大字鉄輪四〇番地の一
堀田温泉
   別府市大字南立石五九三番地
堀田東温泉
   別府市南立石八九九番地
下熱の湯温泉
   別府市大字鉄輪七四四番地の三
鶴寿温泉
   別府市大字鶴見二一五番地の二
地蔵温泉
   別府市大字鶴見一二八四番地

などである。

温泉使用については、昭和59年(1984)3月の定例市議会で改訂され、

同年4月から、入浴券(1人1回)はこれまでの50円が60円に、市民券(30回券)600円

900円に、むし湯1人1回100円を150円に、洗髪料1人1回30円を40円にそれぞれ引き上げた。

また、市営温泉の普通広告物については、10日以内1枚につき、これまで60円であったものを100円に、11日以上30日以内一枚に付 100円を200円に引き上げた。

ただし砂湯料金や不老泉家族室使用料はそのままとした。
この改正は、竹瓦・不老泉・海門寺・田の湯・浜脇・浜脇高等・永石・鉄輪むし湯の八温泉に適用した。

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